単に治療だけの病院ではなく、患者が患者をサポートできる場に 「がん患者の、がん患者による、がん患者のための病院」の誕生に奔走した女性
企画会社社長との出会いが始まり
患者にとって理想的な病院を作りたい――そう考えるようになったのは、患者仲間の死に直面したことがきっかけだった。
大学病院の患者の多くは、終末期に入ると、大学病院を出て系列の医療機関に転院することを求められる。だが、全くなじみのない病院で最後のときを過ごさなければならないという事実は、患者に大変な負担を強いることになる、と中川さんは言う。
「終末期に転院を求められると、患者はものすごい“切り離され感”を感じるんですね。長いことお世話になったドクターやナース、患者会の仲間に支えられて、患者さんが最期を迎えられるような病院を作りたい――それが私の理想であり、野望なんです」
そのイメージに突き動かされるかのように、中川さんはさっそく行動に移った。「理想の病院作り」の企画書を書き、「こういう病院を作りませんか」と、会う人ごとに提案してまわった。
だが、雲をつかむような1患者の提案に、耳を貸す人はいない。
そんな折、中川さんは、医療・福祉関係の企画会社を経営するある人物と出会う。
「私はこんな病院を作りたいんです。社長、どうですか」
「その話は採算ベースに乗らないから、無理だね」
企画は却下されたものの、社長に誘われて、中川さんはパートで勤め始めた。それと並行して、正式な患者会発足に向けての取り組みもスタート。手術から1年後、中川さんの生活は新しい局面を迎えようとしていた。
設立への思いが再発を乗り越える

落ち着きを見せていた病勢が再びぶり返したのは、ちょうどその頃である。
2002年の初頭からじりじりと上昇し始めていた腫瘍マーカーの値は、5月には看過できないレベルにまで達しつつあった。
「中川さん、腫瘍マーカーが、放っておけない数字になっちゃったよ」
CT画像には、縦隔やリンパ節、肺などに無数の転移巣が映り込んでいた。がんが再発すれば完治しないことはわかっている。医師の言葉を克明にメモし、冷静さを必死で保ちながら、「結局、私は死ぬんだ」と心の中で考えていた。
6月、ホルモン剤による再発治療を開始。ノルバデックス投与を3カ月ほど続けた後、薬剤をアリミデックスに変えた。
だが、めざましい効果はなかなか現れない。そればかりか、中川さんは、アリミデックスの副作用である関節痛に苦しめられることとなる。
左肩の関節と右手首、手の指の関節のすべてが痛み、ドアノブを閉めようとしただけで激痛が走る。朝目覚めても、痛みで起き上がることすらできない。寝ても覚めても骨の痛みに悩まされる日が2年ほど続いた。
毎日テーピングで痛みを抑え、夫に家事をサポートしてもらいながら、仕事や患者会の活動を続ける日々。あまりの痛みに、「地の底から引きずりこまれるような、不気味な倦怠感」も味わった。
「でも、『患者会を立ち上げなくちゃ』という思いがあったから、あれだけ動けたんだと思います。この先自分はどうなるかわからない、だから患者会をなんとかきちんとしたものにしておかなくちゃ、と思ったんですね」
そんな努力が実を結び、2003年1月17日、乳がん患者友の会「きらら」が発足。定例会を続けるかたわら、さまざまなイベントも手掛けるようになった。
「2004ブレストケア ピンクリボンキャンペーンin広島」に実行委員会のメンバーとして参加したのを皮切りに、2005年には、「きらら」初の単独主催による「ピンクリボンフォーラム2005byきらら&うらら」を開催。2007年5月19日には広島東洋カープと協力して「ピンクリボンdeカープ」を開催するなど、「きらら」は広島を代表する患者会の1つに成長していく。
人生観を大きく変えた乳がん体験

告知のときから支えてくれた友人たちと
それにしても、中川さんのバイタリティには敬服するほかはない。一方で、乳がんの経験が、中川さんの人生観を大きく変えたことも事実である。
「がんになってからは、とにかく泣きましたね。でも、一番多かったのは、感謝の涙です。当時の日記を見ると、『誰が泣いてくれた』『誰が神社にお参りしてお守りを持ってきてくれた』と、感謝の言葉ばかりが並んでいる。がんになって、悪いことばかりではなかったんですね」
なかでも思いがけなかったのは、高校時代のクラスメートなど多くの友人たちから、温かいサポートが寄せられたことだった。
がんの宣告を受けた日、中川さんはすぐに数人の友人に連絡した。病院まで駆けつけてくれたある友人は、中川さんの顔を見るなりスーッと近づいてきて、無言でそっと抱き抱えてくれた。
「もう、本当にうれしかったですね。『こんな私のために駆けつけてくれる友達がいたんだ。私が彼女のために一体今まで何をしただろう、そんなにいい友達ではなかったのに、ここまでしてくれて』って」
私ががんで死ぬはずがない

ピンクリボンのランチョンセミナーで。
きららの世話人さんたちと
なかでもありがたかったのは、友人たちが原医研で手術を受けたがん患者を探しだし、引き合わせてくれたことだという。
乳がん手術後の通院はどれぐらい続くのか、アイロンがけや車の運転はできるのか、下着はどんなものを使えばいいのか、生活全体はどのように変わるのか――そんな他愛ない質問を経験者にすべて受け止めてもらったことで、手術前の膨らみきった不安を鎮めることができた。
がんの告知から21日目の日記に、中川さんはこう書いている。
「突然、目の前が開けてきた。私はがんで死ぬはずがない」
自分の周囲にも、乳がんのサバイバーがいる――それを知ったことで、中川さんは持ち前のポジティブ・マインドを取り戻すことができた。友人たちのサポートの賜物だった。
義母にがんの報告をしたときのことも、中川さんにとっては生涯忘れえぬ思い出となった。
「『お義母さん、迷惑をかけてご めんなさい。何もしない嫁なのに、がんにまでなってしまって』と言ったら、無言で聞いていた義母が、嫁の私のためにわらわらと泣いてくれたんですよ。 『この私が代わってあげられるものだったら代わってあげたい』と言って……。あれが、がんになって一番感動した出来事でした。そのとき私は『生きよう。生きて、このお義母さんの介護は絶対に私がしよう』と心に決めた。それぐらい、うれしかったんです」
それまで、自分が死んでも、泣いてくれる人は5人もいないのではないか、と疑っていた。でも、私はこんなに、みんなに愛されていたんだ――がんの不安におののく心の襞に、思いがけず喜びが浸みとおっていくのを、中川さんはしみじみと感じていた。
夢への挑戦は緒についたばかり

2004年に腫瘍マーカーが正常値に戻って以来、中川さんのがんは完全寛解状態にある。
そんななか、中川さんの理想は大きく実現に向けて前進しようとしている。それが、冒頭でもご紹介した“夢の病院”作りの一大プロジェクトだ。
中川さんの心に萌し、「きらら」の仲間たちとの地道な活動が育てた夢の種子は、周囲の人たちを巻き込んで大きく枝を広げていった。プロジェクトは最後の一里塚にさしかかったが、ドクターの開業がデリケートな問題であることに変わりはない。新しい動きを警戒する医療界の一部から、心ないいやがらせや圧力がかけられたこともあったという。
しかし、今や“夢の病院”は、広島中の乳腺科の医師の間で注目の的だ。「この病院とは何の関係のないドクターたちが、『これはこうしたほうがいい』『手術はこんな風に受けたら』と真剣に議論してくれるんですよ」、と中川さんは笑う。
「3年後には入院病棟を作り、手術もできるようにしたい。そして、当初の計画どおり、理想の緩和ケアに取り組みたい、というのが私の野望ですね」
その意味では、今回作る病院は、いまだ“夢の病院”プロジェクトのワンステップにすぎない。「がん患者の、がん患者による、がん患者のための病院」――それを実現するための挑戦は、まだ端緒についたばかりだ。フロンティア・スピリット溢れる中川さんの壮大なチャレンジに、心からのエールを送りたい。
(構成/吉田燿子)
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