数々のスクープをものにしたジャーナリストががんで学んだもの 夫婦ダブルでがんを乗り越えた「相手への思いやり」
3a期の進行性胃がん「まだ死にたくない……」
藤原さんがなかなか病気と向き合えずにいたのには、もう1つの理由があった。3年がかりでまとめた労作『美智子皇后の70年 女人抄』の出版が目前に迫り、徹夜作業が続いていたのだ。
最終校了を12月中にすませ、出版も翌年の2月1日と決まった。早期発見・早期治療のおかげで妻も順調に回復し、2004年正月、藤原さんの家では2男1女と孫たちが久々に集まって、妻の退院を祝った。
だが、ホッとしたのもつかの間だった。藤原さんの中でなりを潜めていた病魔は、このときを境に、攻勢に転じ始める。
68歳の誕生日を翌日に控えた1月7日。妻の手づくりのチャーハンを食べていると、急に吐き気がこみあげてきた。トイレに駆け込むと、大量の血が喉元からあふれ出した。便器が真っ赤に染まり、意識がスーッと遠のいていく。1年の間に、藤原さんのがんは大きく進行していたのだった。
妻と入れ替わるようにして総合高津中央病院に行き、精密検査を受けた。結果は、「3a期」の進行性胃がん。胃の4分の3が印環性がんに罹っており、がん細胞は胃の入り口の食道から十二指腸まで広がっている、と主治医から告げられた。
覚悟していたこととはいえ、ショックは大きかった。医療関係の本を読みあさる一方で、「死にたくない」という思いが脳裏に浮かんでは消えてゆく。がんに対する恐怖心が募り、藤原さんは平静さを失っていった。
「自殺」と悟られずに逝く方法も考えた
家族や仕事仲間、友人に「自殺」と悟られずに逝く方法も考えた。たとえば、完全犯罪のトリック小説を緊急脱稿し、そのストーリーのように事故死に見せかけたらどうか――そこまで考えるほどに、藤原さんの精神状態は追い詰められていた。
そんな藤原さんの窮状を救ったのは「家族」だった。妻が夫の異常に気づき、離れて暮らす子供たちに電話で状況を伝えた。
「すると長男が電話してきて、こう言うんです。『お父さん、手術をして治ってほしい。今までさんざん迷惑かけたけど、親孝行したいから元気でいてほしいんだ』って。こういう励ましというのはうれしいですよね。長男はいじめがきっかけで高校を中退したんですが、その後結婚して家庭をつくり、自分流の生き方を貫いている。苦労した奴だから、治療費の工面にも奔走してくれたんです」
知らせを聞いて、青山のレストランで料理修行をしている次男や、カメラマンの長女も駆けつけてくれた。
「それまで、家族はバラバラに暮らしていたんですよ。ところが『お父さんががんになった』と���、急に団結しちゃって。次男坊は、退院後の仕事の準備にと、パソコンを買って部屋にセットしてくれた。長女も、都内のマンションを引き上げて実家に戻ってきてくれたんです。本当にうれしかったですね」
成長して巣立っていった子供たちが、自分の闘病を一致協力して支えてくれる。藤原さんは病室で、親子の絆が再び固く結び直されていくのを感じた。妻と自分が交互にがんを患ったことで、大人に成長した子供たちが、今度は親を支え、励ましてくれる。そのことが何よりうれしかった、と藤原さんは語る。
1滴の水、1粒の米のおいしさを実感

1月30日早朝に入院し、手術は2月3日に行われた。食道の入り口の噴門から胃の出口に当たる幽門までを摘出し、十二指腸を閉じて空腸と食道をつなぎあわせた。転移が見つかった脾臓とすい臓の尾部、リンパ節も切除された。
手術の1週間後に抜糸。点滴もはずされ、コップ1杯の水と三分粥による食事も始まった。健康なときには見過ごしていた1滴の水、1粒の米のおいしさが無性に感じられ、涙があふれた。「人間は他の生命をもらって生かされている」――大自然の摂理を実感し、生きることの感動と感謝の念がこみあげてきた。
見舞いの友人から1冊の本をプレゼントされたのは、そんなある日のことである。本のなかのある1節が、藤原さんの心に響いた。
《私たちの命は、ビッグバンで宇宙が誕生したときから旅を続けています。宇宙のあらゆるところでさまざまな「生」を体験していきているはずです(略)。死は、その一つの体験の区切りとしてあります。人は、貴重な体験をもたらしてくれた肉体を脱ぎ捨てて、次の体験への旅に出かけていきます。私は地球での何十年間は、折り返し地点ではないかと思っています。》(帯津良一著『いのちの勉強』)
死が壮大な宇宙への旅立ちならば、死を苦悩のなかで迎えるのではなく、大勢の人に祝福されて「地球よ、ありがとう」と出発したい。この地球での人生が、かけがえのない生存の体験を積み重ねる道程の1つだというのなら、地球旅行では楽しく素晴らしい生を紡ぎたい――藤原さんは強く思った。
自分を支えてくれた妻への感謝と贈り物

術後の経過は順調だった。意を強くした藤原さんは、「退院前倒し作戦」を実行することにした。(2月21日のかみさんの誕生日に退院してやろう)というひそかな“野望”を抱いてのことである。
思えば、今まで妻の誕生日を心から祝ってあげたことがあっただろうか。今度の誕生日にはケーキを買って家に帰り、家族みんなでお祝いしたい。それが、これまで自分を支えてくれた妻への感謝を示す、何よりの贈り物に思えた。
ここからが、藤原さん一世一代の大芝居の幕開けだった。医師や看護師が常勤するナース・ルーム前の廊下を大手を振って歩き、パジャマをジャケットに着替えて階段を上り下りして、元気な姿をアピールした。効果てきめん、じきにナース・ルームの黒板に「藤原さん 2月21日退院」の文字が書き込まれた。
「藤原さん、すごいパフォーマンスでしたね。家では無理をしないように」
退院の前日、主治医はこう言った。藤原さんの“1人芝居”を見抜いたうえでの退院許可であった。
退院後は1カ月の抗がん剤治療を経て、漢方薬に切り替えた。現在、病状は安定しており、血糖値も正常、腫瘍マーカーの数値にも異常はなく、転移の兆候も見られないという。
今、藤原さんは、夫婦のがん経験を「体で学んだ貴重な日々の連続」と振り返る。
「人間1人じゃ生きられない。『私を助けてください』というばかりではなく、相手の気持ちになってものを考えることがいかに大切か。周囲の人のことを思いやっていると、自分の痛みは不思議と和らぐんですね。妻の入院を通じて、『かみさんはこういう気持ちで僕のことを支えてくれたのか』と気づくことができた。
だから、今は家の周りを掃除するのも苦にならないんです。気持ちの持ち方って大切なんだなあ、と――その“スイッチ”を見つけることができたことが、何よりの収穫ですね」
死を恐れれば恐れるほど、不安とストレスは大きくなる。ならば、命の貴さに感謝し、人とのつながりに感動して生きることのほうが、どんなに楽だろうか。がん経験によって知ることのできた、「生きる」ということの豊潤な味わい。ジャーナリスト・藤原佑好は、今、生の“語り部”としてがん経験を語り継いでいる。
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