白血病を乗り越え、骨髄バンク支援に立ち上がる舞踊家 日本舞踊「錦流」宗家、錦加宝光・前原レイコさん

取材・文:守田直樹
発行:2006年7月
更新:2013年9月

「お金がない」と言って亡くなった若い2児の母

親しくなった人には必ず休むよう諭したが、「お金がないから」と言われれば返す言葉が無かった。

病院で、赤ちゃんを背負い、2歳くらいの女児の手を引く若い母親とも知り合った。医師から入院を促されても、通院治療ですましているという。その理由を尋ねると、

「おばちゃん、入院するお金が無いんよ」

と、曇った表情で言う。前原さんもつい強い口調になった。

「お金が無いって言ったって、お婿さんがおるんやろうがね」

「うーん、そやけどね、子供がおるけん」

「子供くらい預けなさい。自分の命が大事やろうが。そうしないと、もしものことがあったら子供はどうするの」

「おばちゃん、子供を預けるのにも、入院するのにも、お金がかかるけんね……」

「お金がかかるちゅうて……あんた……」

この母親はその後、時を経ずして亡くなった。

大部屋のベッド周りにビニールを張る「無菌ベッド」もあったが、前原さんの場合、差額ベッド代が必要な個室に無菌装置という機械をレンタルして入院した。これを8カ月間続けたのだから、金額は膨大になる。今では無菌室は保険が適用されているが、当時は個室に入るにはそうするしか方法が無かった。

踊りでチャリティー発表会を

「私の場合、のんきやからお金が無くなったら家を売ればいいと軽く考えていました。でも自分は恵まれている、これはなんとかせないかんと思ったんです。私は他のことは何もしきらんけど、踊りだけはできます。チャリティーで少しでも助けてあげられたらって話したら、先生が骨髄バンクのことを教えてくれたんです」

白血病の治癒は、発病から5年が目処。前原さんは6年目を迎え、骨髄移植もしていなかったが、主治医の澤田さんが「日本骨髄バンク」の調整医だったこともあって寄付先を決めた。

アドバイスをした澤田さんはこう語る。

「前原さんからチャリティーのことを聞いたときは嬉しかったです。今でこそドナー登録者が24万人を超えましたが、当時はまだあまり知られていない時代。身内など近しい人が病気にならないと、なかなかその重要性がわかりません。普通の人にも骨髄バンクを知ってもらうのに一番いい機会になると思ったんです」

澤田医師が小倉記念病院の看護師に声をかけると、10数人が趣旨に賛同。そうした人々の力添えがあって、チャリティー発表会が実現した。

1999年11年11月3日の発表会に出演し、「錦流舞踏教室」を主宰している名取の錦加香光さんはこう話す。

「先生は、舞台に立たれるとシャキッとなる。舞台で踊る姿を見たときには、やっぱり感激しました。それに何かあったときでも、出演者のほとんどが看護師の方だから安心なんです」

長唄に乗せた名取たちの舞踊や、趣向を凝らした創作舞踊など、硬軟織り交ぜた演目に観客は惜しみない拍手を送ってくれた。医師の澤田さんも、転勤先の奈良県から応援に���けつけ、白血病についてのミニ講演を行って理解を求めた。

前原さんは、自宅に帰ると立ち上がれないほど疲労困憊していた。が、3日間ほどは家の電話が鳴りっぱなし。「息子の白血病が治らないんです……。死にたい」といった電話もあった。

「親がしっかりしてないと子供さんは堪えられませんよ」

と、必死に慰め、励まして受話器を置くとすぐに次の電話がかかってくる。いかに多くの人が同じ病で苦しんでいるかを改めて知ると同時に、チャリティーの継続も誓った。

唄と踊りがあったから今がある

写真:2回目のチャリティー発表会

2回目のチャリティー発表会で『清元 長生』を踊った錦加宝光こと、前原さん

2003年、2度目のチャリティー発表会を行った。直前に全国紙が取り上げてくれ、初回を超える反響を呼んだ。受付でも、「治療方法を教えて」など、病気のことを尋ねる人がたくさんいた。また、白血病であることを伝えていなかった遠方の弟子たちからも、激励の電話が数多くかかってきた。

しかし、こうしたチャリティーも継続が難しい。昨年の3回目のチャリティー発表会にこぎつけるまでには、今までより苦労が増した。

白血病で夫に先立たれた妻のところへ1枚2000円のチケット購入のお願いに行くと、こう怒声を浴びせられた。

「あんたは助かったけど、父ちゃん死んだけん、私には関係ない、帰って」

寄付金の額も初回が約80万円、

「骨髄移植推進財団」に寄付先を変えた2回目が63万円、3回目は51万円と少しずつ減ってきた。ホールの使用料や高熱費を差し引いた全額を寄付することに不満の声も漏れ聞いた。しかし、前原さんは「1円でも多く寄付したい」と言う。

写真:パンフレットとビデオ

2回目の「チャリティー発表会」のパンフレットとビデオ

写真:3回目のチャリティー発表会

3回目のチャリティー発表会で、『序の舞』を踊る錦加宝光さん(右)と、錦加香光さん(左)

「骨髄移植もドナーの方が全然足りません。なかなか型が合うドナーの方が出ないので苦しんでいる方も多いんです。みなさんドナーになると腰とか切られるとか思ってるみたいですけど、注射で骨から採るんですね。患者は胸骨などから何度も採るので大変ですが、ドナーの方は1回だけ。ちょっと痛いけど、すぐにすむので全然平気なんです」

今があるのはいろんな人たちのおかげ。それを痛感しているのが前原さん。そしていくら感謝してもしきれないのが姉の君子さんに対してだ。

「お姉さんの支えがないと、私なんか生きてない」と、前原さんはしみじみと言う。

君子さんは入院中、朝7時から夜10時ごろまで毎日のように付き添い、外来通院もいっしょに通って支えてくれた。体力を消耗しきって病院から家に帰り着いたかと思うと、容態が急変。急いで戻ることも1度や2度では無かった。その3年間の闘病生活のことを君子さんはこう表現した。

「猛烈な戦争でした」

前原さんは今も100パーセント健康体ではない。心臓の鼓動が急に早まる「心房粗細動」を患い、薬の影響もあるのか血小板の数値の低下にも悩まされ、踊りのほうは休止状態だ。

しかし、主治医のすすめで、調子のいい日は姉と2人で散歩に行く。2人でいろんな話をしながら、ゆっくり歩く。

そして部屋に戻ってからの楽しみは、音楽を聴くことだ。

「音楽を聴くだけで頭がすっきりするし、朗らかになります。音楽は生きがい。ああ、生きとるなあと実感できるんです。この唄と踊りがあったから今、生きとられるのかもしれません」

長唄などを聴きながら、頭のなかでは踊りの所作が次々と浮かぶ。次のチャリティー発表会に向け、心では踊っている。


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