生は、自らの手でつかみとる。その強靭な心が明日の扉を開く 『キュアサルコーマ』設立メンバー・米澤京子さん

文:吉田燿子
発行:2006年6月
更新:2013年9月

肺と肝臓に10カ所の多発転移

米澤さんが大西貴子さんと出会ったのは、そんな折のことである。

インターネットの掲示板で「ラジオ波焼灼法は肉腫でもできますか」と問い合わせた米澤さんに、返事をくれたのが大西さんだった。25歳で発病し、15年間も生き延びている平滑筋肉腫のサバイバー。そんな大西さんの存在は、米澤さんにとって「希望の星」以外の何者でもなかった。以後、2人の間で電子メールとのやりとりが始まり、大西さんは米澤さんにとってかけがえのない存在となっていく。

だが、再発から半年が経過した頃、再び事態は急転した。岡山大学での定期検診で、両肺と肝臓に10カ所もの多発転移が見つかったのだ。

あれほど苦しい手術に耐えたのに、結局ムダだった。これががんという病気の実態なのか――米澤さんはまたも打ちのめされた。涙があふれ、体の震えを抑えることができなかった。

「つらかったですね、目の前で先生に『もう手術はできない』といわれて。自分にはグリベックが効かないのに、手術すらもできない。手術できなくなった患者は病院から放り出されるとわかっていたから、ああ、とうとうそのときが来たか、と」

だが、前回の再発とちがったのは、さまざまな治療法に精通した先輩患者という心強いサポーターがいたことだった。米澤さんは大西さんの勧めにしたがい、大阪府立成人病センター研究所部長で医師の高橋克仁さんに、標的遺伝子療法についてのセカンドオピニオンを求めた。さらに4月と5月の2回、岡山大学の放射線科でファルモルビシン(一般名エピルビシン)を用いた肝動脈塞栓術を受けた。だが、効果のほどははかばかしくない。そこで6月には、ラジオ波焼灼法の名手として知られる東京の関東中央病院消化器内科医師の小池幸宏さんの治療を受けることに。このとき肉腫は12個に増えていたものの、そのすべてをラジオ波で焼いてもらうことができた。

人生を大きく変えた先輩患者の一言

米澤さんのCT写真

米澤さんのCT写真。左が2006年3月、抗がん剤の効果により肺の腫瘍が激減している。右は2005年12月、抗がん剤治療を始める前。肺に100個以上の腫瘍が見られる

闘病を続ける米澤さんに大西さんが与えたものは、情報やアドバイスだけではなかった。

「標的遺伝子療法に賭けてみませんか」

そんな大西さんからの一言が、米澤さんのその後の人生を大きく変えることになる。

患者会を結成し、標的遺伝子療法を推進する手助けができないものか――大西さんの呼びかけに賛同した米澤さんは、友人の岡田真一郎さんの協力も得てホームページ立ち上げに尽力。肝動脈塞栓術の治療が終わると東京に飛び、3人で顔を合わせて計画を練った。2カ月後の7月、ついにホームページを開設。患者会の名前は標的遺伝子療法の実現への希望をこめて、『キュアサルコーマ(Cureは治療、Sarcomaは肉腫の意)』と名づけられた。

そんな矢先、再び肉腫が猛威をふるい始める。

8月、骨盤内と皮下の2箇所の腫瘍を手術により摘出。

11月、左右の腎臓と肝臓��の転移が発覚し、4個の肉腫をラジオ波で焼灼した。

12月、膵がんなどでよく使われる抗がん剤による治療を開始。1クール終わったところでCT検査を受けたところ、再び左の腎臓に転移が見つかった。しかも、肉腫は左腎の腎静脈内部まで入り込んでいる可能性が高いという。主治医からは左腎臓の摘出を勧められたが、もし右腎臓まで摘出することにでもなれば、もはや人工透析のほかに道はなくなる。ショックだった。そのまま医局に行き、看護師や前の主治医の前でワンワン泣いた。

この日のことを、米澤さんはブログでこう書いている。

「私はそんなにタフじゃない。
じわじわと身体を痛めつけられ、その我慢の甲斐もなく
次から次へと試練がやってくる。
私は一体何をしたのだろう?
前世で、とても重大な罪を犯したの? 何に、報いなければいけないの?」

6日後に緊急オペを受け、左の腎臓を摘出。手術後、欧米の患者会で第1選択として推奨されている抗がん剤による治療が始まった。

肉腫と闘うことの苛酷さ

写真:沖縄旅行

2005年8月末に骨盤内腫瘍、皮下腫瘍を切除し、退院10日後に行った沖縄旅行。夫の肇さんと

写真:沖縄旅行

2006年4月10日に神戸・六甲山のカフェで行われたチャリティコンサート

それにしても、米澤さんの病歴を見ていると、肉腫と闘うことの苛酷さに驚かされる。2カ月ごとに頻々と繰り返される転移・再発。まさに「モグラ叩き」といっても過言ではないほどの厳しい闘病生活を、米澤さんはどのように乗り切ってきたのだろうか。

「私がここまで来れたのは、電話ですぐに相談できる大西さんや高橋先生の存在があったから。これがダメでもまだこの道がある、と次を考えることができる。岡山大学の先生たちにしても、これだけ転移しているのにオペをしてもらえるのはありがたいことだと思うんです。高橋先生が手術に立ち会うことも認めてくれるし、先生同士メールで情報交換もしてくれる。その意味では本当に感謝しています。私は恵まれているんですよ」

キュアサルコーマの活動を始めたことも、米澤さんにとっては大きな支えとなった。

10月末からはインターネット上で、厚労省に対して標的遺伝子療法への研究費補助を求める署名活動をスタート。それをきっかけに、米澤さんは中学や高校の同級生にも病気のことを告白し、署名への協力を求めた。これを受けて、中学時代の恩師や同級生は「米澤京子を支援する会」を結成。キュアサルコーマが制作した募金用のリストバンドを地元のチャリティイベントで販売するなど、支援の輪は広がっていった。

さらに、友人が新聞社やテレビ局に手紙を書いたことから米澤さんらの活動がマスコミで採り上げられ、12月上旬までに10万5000人を超える署名が集まった。そのかいあって、ついに今年4月、厚労省からの研究費の補助金交付が決定したのである。

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