闘病を機にジャズマンとしての第2の人生をスタート ジャズ・ベーシスト・平沼昇一さん

取材・文:塚田真紀子
撮影:谷本潤一
発行:2006年5月
更新:2019年7月

友人の死とがん発病

仕事で、家族にも言えない悩みを抱えている時、平沼さんはいつもジャズに慰められていた。42歳ごろから、休日を利用して、かつての学生時代の仲間と一緒に、ライブハウスに出演するようになった。

1998年7月、46歳のときに、メンバーのピアニストが、こう言った。

「平沼、わし、食道がんなんや」

彼は、入院し、放射線治療と手術を受けた。ほどなく、肝臓と骨髄に転移が見つかる。見舞いに行くたびに、症状が重くなっていく。最後に会った時には、ガリガリに痩せ、目の焦点が合っていなかった。手を握り、「またジャズやろな」と励ましたが、10日後、彼は47歳で亡くなった。

その1カ月後の1999年6月、平沼さんに早期の胃がんが見つかる。医師から告げられたとたん、身体中の力が抜けた、という。帰宅して「がんやったわ」と報告したところ、妻も両親も顔色を失い、泣き出した。平沼さんは心の中でつぶやいた。

(わしがしっかりせなあかんな。病気に負けてられへんで)

気をしっかり持ったつもりだった。が、入院前に、仲間とゴルフをして愕然とする。ハンディ5の腕前なのに、いくら打っても、球がちっとも飛ばない。大きな不安を抱えていると、身体に力が入らないのだと知った。

友人を亡くした直後だっただけに、目の前に死がちらつく。「胃のない生活」も想像できなかった。胃を失えば、長生きなどできないような気がして、医師に「胃をできるだけ残してほしい」と訴えた。

しかし、がんが噴門から7センチ以内にあり、全摘せざるを得ないと説得される。ジャズ仲間の医師も同じ見解だった。「患者の意思を優先したために、再発して悔いが残ったことがある」と言われ、あきらめた。

不安でつぶれかける

写真:手術後、病院のベッドで

手術後、病院のベッドで

写真:ロンドンコレクションの会場で

手術後、仕事に復帰した平沼さん。ロンドンコレクションの会場で

手術後、傷口がひどく痛んだ。それまで国内外を自由に飛び回ってきただけに、鼻や腕に管がつけられた自分を、まるでベッドに縛りつけられているようだと感じた、という。75キロもあるがっちりとした体型が、みるみる痩せて63キロになった。手術前のパジャマがだぶだぶで、着られなくなった。立ち上がろうとして、よろめいた。筋肉も体力も落ちている。身体の急激な変化に、この先どうなるのか、不安が募る。しかも、転移のない粘膜がんだとは言え、再発の可能性はゼロではない。

それまで、「努力」を武器に、平沼さんはいくつもの困難に立ち向かってきた。逆境を乗り越えるたびに、自信をつけていった。

“自分”が“自分”である限り、自身への信頼は揺らぐことはなかっただろう。

ところが、そのより所としていた“自分”が急変した。「食べる」「動く」「働く」といった、今まで当たり前にしていたことが突然できなくなったのだ。それは、今までの“自分”ではなくなるような、存在を脅かされる恐ろしさだった。

退院後、本格的に食べ始めると、さらなる困難に直面することになる。

「食べると、苦しくて、腸が痛くてたまらない。冷や汗を流して、唸りながら、食べ物が下がっていくのを待つんです。1時間ぐらい動けませんでした。何を食べたらそうなるのかは、わからない。プリンを食べるのも、ごっつ怖かったからね。下痢も続き、体重は57キロにまで落ちました」

平沼さんは自分がつぶれてしまいそうだと感じた。それをすんでのところで救ったのは、生来の“負けず嫌い”だった。

「気力で負けたらあかんと思った。負けたら周りも落ち込むし、自分もどんどん衰える。体力と気力はつながっているから、身体をもう1回、作り直そうと思った」

最初は近所を散歩するだけで、足がつった。そこでスポーツクラブの会員になり、プールで歩くことから始めた。少しして筋トレを始めた。カロリーを消費しないメニューを組んでもらい、じわじわと筋肉を作っていく。2カ月間、毎日トレーニングを続け、手術の4カ月後、職場に復帰した。

がんに背中を後押しされた

写真:ベーシスト・平沼さん

2003年には「神戸ジャズCITY委員会」の設立にもかかわった。アマチュア・ベーシストからプロのベーシストへ。平沼さんは闘病を機に長年の夢を実現させた

気力が蘇ったものの、食べられず、下痢も続いていたから、仕事はきつかった。手術の8カ月後、ロンドンで、ファッションショーの最中に、後期ダンピング症候群(血糖値が急激に下がって起きる)を起こして倒れてしまった。

以前のように動き回れなくなると、デザイナーが不満を漏らすようになる。それに乗じて、ある部下が平沼さんの悪口をでっち上げて、デザイナーに次々と吹き込む。誤解が度重なり、復帰の2年後、もはや修復できない状況になった。デザイナーが平沼さんを厄介者扱いし出したのだ。

「“わしは使い捨てかい!?”と、腹が立ちました。じゃあ、もう辞めるわ、と言うて。だけど、ビジネスの世界はもういい、とも思った。昔なら人生50年。あとは自分の好きなように生きることにしました」

平沼さんは、ライブハウスを開く夢を持っていた。娘たちが独り立ちする55歳ごろ、仕事を辞めて実現させるつもりだった。それを5年前倒しにし、2001年12月、『グリーンドルフィン』をオープンさせた。 ジャズはあくまでBGMという独自の考えから、ボーカルは入れず、ベースとピアノの共演だ。ジャズとのほどよい距離感は、他の世界を知った強みだろう。もちろんジャズ・ファンだけを相手に商売をしても採算がとれない、というそろばん勘定も忘れない。

元ビジネスマンとしての企画力に、ジャズを観光の目玉にしたい神戸市が目をつけた。2003年、「神戸ジャズCITY委員会」の設立にかかわる。ジャズ・マップを発行し、神戸ジャズ・ウォークなどのイベントを仕掛けている。「神戸ジャズ」が紹介され、ジャズ関連の店に人が集まってきている。

写真:ライブハウス『グリーンドルフィン』

ライブハウス『グリーンドルフィン』で開かれたライブの様子

ふと思いたって、平沼さんの店のライブをのぞいてみた。なるほど、ジャズとはあまり縁のなさそうな、若い女性の2人連れもジャズに聴き入っている。ディズニーのピノキオのテーマ曲「星に願いを」で引きつけ、シャンソンの名曲「枯葉」をじっくりと聴かせる。ボン、ボン、ボン……。平沼さんの長い指がベースを奏でる。音楽さえあれば何もいらない、といった表情だ。

「もともと僕は、感性の世界で生きたかった人間。今、本来の自分に戻れて、本当によかったなぁと思いますね。がんになっていなかったら、生涯、夢が実現しなかったかもしれない。がんが背中を後押ししてくれましたね」

ボン、ボン、ボン……。“今を生きる喜び”が力強く伝わってくる。


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