悪性リンパ腫を乗り越えた「記者魂」 読売新聞西部本社法務室長・広兼英生さん

取材・文:守田直樹
発行:2006年2月
更新:2013年9月

広兼英生さんのリビング・ウィル

家族への感謝とお願い

2001年9月

紀美江さま、兵衛さま、俊作さま

3人に心から感謝します。おかげさまで、自分なりに納得のいく人生を送ることができたとそれなりに達観し、ささやかに満足もしています。我ながら、不思議なほどに、未練らしきものはありません。強がりなのかも知れませんが、現時点でそう感じられることは、実に、ありがたいことです(生物にプログラムされた死の恐怖からはもちろん逃れられませんが)。

高校生のころから「人生いかに生きるべきか、即ち、死すべきか」に悩まされ、大学時代は「宗教って何だろう」と真剣に考え、上智大の神学講座に無遅刻無欠席で延々と通い、日光の、英語しか話せない合宿にもすがる思いで参加しました。

その後、「カトリックだからだめなのか」と思い、プロテスタントの教会にも通いつめ、司祭と議論し、2時間も3時間も跪いて祈ったり、さらに、日本の宗教の勉強会にも行き、わが先祖とされる神道の神社も訪ねて質問を重ねましたが、答えらしきものは何ひとつ見出すことはできませんでした。そのとき「宗教に頼ることができず、自分の実存を、自分1人で背負わざるを得ないのか」と厳しい思いで覚悟したものです。

でも、今思うに、そのような体験があればこその「そこそこ納得の人生」の境地になれたのかなとも感じます。

我が家は、かつては大地主だったそうですが、私が生まれたときは、相次ぐ家の火災や他人の保証倒れで、食べるものにも困るほどの極貧状態でした。

高校を自力で卒業し、広島テレビのアルバイトカメラマンを経て、同TVの映画課長から名刺1枚をもらい、1度も行ったことのない東京に独り、夜行列車で向かいました。東京でも、また、同じように周囲に支えられ、大学を卒業することができました。アルバイト先の三菱重工や映画関係者らのご恩なしに、独力で学校を卒業することはできませんでした。ご支援頂いた多くの方は、すでに鬼籍に入られました。生前、何の恩返しもせず、今となってはそのことが心残りでなりません。これは私の甘えですが、子供たちが、父の分まで恩返ししてくれれば望外の幸せです。

人生は、何年生きたかというより、どう生きたかということのほうが、はるかに大事だと今、率直に思っています。良き妻に恵まれ、心優しき長男に恵まれ、個性的な次男に恵まれ、家庭生活の醍醐味も味あわせて頂いて、心から感謝をしています。特に、紀美江には、三菱重工時代から、長い間、お世話をしてもらい、「早稲田を受けたら」とアドバイスをしてくれたのもあなたでしたよね。その一言が、僕の人生をより豊かにしてくれました。

君と同じ時期に逝けたら良かったのですが、一足早めに行く不義理をお許し下さい。その代わり「ありがとう」の言葉をあなたに何度も、何度も捧げます。

記者としては、水俣病をはじめとする公害問題、米軍基地問題、九州・沖縄サミット取材などのほか、ゴルバチョフ元ソ連大統領らを招いたノーベル賞フォーラムなども担当させてもらい、遊軍時代には、私の1番の得意分野である長期連載を何本も書くことができました。そのうちいくつかの作品は、単行本として読売新聞社などから全国発売されました。

また、組合の執行委員長も2期務め、感謝してもしきれないほどの貴重な体験をさせて頂きました。本当に、よき人生であったと感じています。

そのような私の思いを前提に、兵衛、俊作にお願いがあります。お母さんとは常々話し合っているので、彼女も基本的には考えは同じだと信じています。もし、万一、最期が近づいた際には

(1) 延命措置は絶対に施さないで下さい(生物の世代交代・死は必然なのです)
(2) 蘇生術も施さないで安らかに逝かせて下さい
(3) ただし、痛がりなので、ペインコントロールだけはしっかりお願いします。
(4) モルヒネもしっかり使ってください。意識が回復しなくても構いません
(5) 可能であれば、最期は、ホスピスを希望します(これは無理をする必要はありません)

以上、本当に感謝の連続です。幸せな人生をありがとう

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