“奇跡を生むんだ”と「がん春」まっ只中の小児科医 田村明彦さん

取材・文:塚田真紀子
撮影:谷本潤一
発行:2005年7月
更新:2013年8月

笑顔が消えた

写真:「広田走ろう会」の仲間たちと
主宰していた「広田走ろう会」の仲間たちと
(右端が田村さん)
写真:市民マラソンに参加した50代のころ
「広田走ろう会」の仲間と市民マラソンに参加した50代のころ

25年前、45歳で開業した。

田村小児科医院の診察室や待合室は、ミッキーマウスやアンパンマンなど、子どもが大好きなキャラクターグッズで飾られ、スピーカーからは童謡が流れている。

ここで田村さんは、子どもを診るのと同時に、母親を励ます医療を心がけてきた。アレルギー疾患の治療を補うものとして、漢方薬の処方をし、これが人気を集めた。抗生物質や解熱剤は極力使わない。評判を聞きつけて、偏頭痛や生理痛で悩む母親たちも訪れるようになる。

診察時刻は午後4時半まで。テニスコートに通うためだった。一方、休日は日曜だけで、急患には24時間、対応した。仕事も私生活も充実したときが過ぎていく。

ところが、1999年7月。64歳のときにそれが一転した。その1年前から辛かった腰の椎間板ヘルニアが重症化したのだ。1カ月間入院し、神経ブロックの治療を受けた。左足はしびれ、歩けない。

「絶対安静です。仕事に復帰するには、数年かかるでしょう」と説明を受けた。

それでも、田村さんは、わずか退院後2カ月で外来診療を再開する。イスに座るとしびれがひどくなるので、両膝を床につき、イスに座った子どもを見上げるようにして診察した。が、前屈みになる姿勢がとれず、点滴などの処置ができない。

診察以外はじっと横たわっている生活で、木曜日を休診にした。夜間は留守番電話に切り替えた。24時間、対応できる小児科医を自負してきただけに、手足をもぎ取られたような気持ちだった、という。患者の多くが他の医療機関に移っていった。

「医師としては最低でしょうね……」

それでも1~2年休むことなど考えてもみなかったという。彼は存在すべてが「小児科医・田村明彦」なのだろう。

一方、好きな運動も油絵もできなくなった。いつも上機嫌だった田村さんから笑顔が消えた。1年後、やっとイスに座れるようになったものの、十分に仕事ができる状況にはほど遠く、不満と怒りを抱え続けた。2002年の冬には、里帰りしていた息子夫婦をささいなことで怒鳴りつけた。

「俺の言うことが聞けないなら、出ていけー!」

激しく泣く孫を抱いて、息子夫婦は深夜に家を飛び出して行った。

その翌年5月、がんが見つかった。

5年生存率25%以下

2003年5月に、非ホジキンリンパ腫の2期だと判明する。6月に入院して抗がん剤治療を受けた。退院間際、椎間板ヘルニアが気になり、主治医に頼んでMRIを取って��らったところ、思いがけず脊椎に骨転移が発見された。若い主治医が言った。

「骨転移によって4期となり、5年生存率は25パーセント以下です。これ以上、標準治療をやっても、意味がないかもしれません……」

「そうですか」

冷静に応えたものの、夕食は一口も喉を通らなかった。妻や息子たちは田村さんの病気にはノータッチだ。彼が「医師」だから、家族の出る幕ではないと思っているに違いなかった。1人、病室で死の恐怖にとらわれ、持病の不整脈が急に襲ってきた。睡眠薬をのんでも一睡もできなかった。

翌朝5時半、病室から散歩にでかけ、朝日に輝く大阪城の天守閣を見上げた。天守閣が「わかるよ。辛いよね。でもがんばらなくちゃね」と言ってくれているような気がして、声を上げて泣いた。病室に戻っても、また涙がこぼれた、という。

「寂しい世界ね(笑)。耐えられないような寂しさを感じました。でも職業柄、すべては自分が引き受ける、クリアーしていかなくてはいけないという責任感は、患者になってもあった。どんなに苦しくても、弱音を吐かずに1人耐えるものだ、というね……」

40年来、妻・五十鈴さんは重症のぜんそくを患っている。死の恐怖と同時に、妻を置いては絶対に死ねないと思った、という。

写真:医師、高柳和江さんと

入院中、「笑って! アハハ」というメッセージとともに笑顔の写真を送ってくれた医師、高柳和江さんと(2003年)

どう生きればいいのか、悩む日々が続く。救いを求めるような思いで、友人たちに近況報告をした。内科医の親友は「悪性リンパ腫は全身病だから、骨転移ではなくその1部と考え、抗がん剤治療を続けろ」とアドバイスしてくれた。「もっと笑って!」と笑顔の写真をくれた人など、励ましの手紙が次々に届く。椎間板ヘルニアになって以来忘れていた、周囲への感謝の気持ちがわいてきた。生きる勇気も出てきた。

病室のベッドで、「生き残るための生き方」を考え続けた。ベースになるのは、小児科医として培ってきた、“西洋医学と東洋医学とを組み合わせた治療”だ。

「『5年生存率25パーセント以下』は現代医療だけをした場合の数字なんですよね。悪性リンパ腫の原因はわかっておらず、抗がん剤の使い方も経験的。だとしたら、むしろ漢方薬のほうに歴史がある、と気がついた。目の前がうんと明るくなるような気がしました。いろいろなものを組み合わせれば、25パーセントを50パーセント、70パーセントと上げていけるはずだと。医者は言ってくれないけどね」

抗がん剤治療の効果に期待しつつ、漢方薬や代替療法、食事、運動、気功などで自然治癒力を高めていこう、と決めた。

一方、小児科医として子育てで悪戦苦闘している母親たちを励ましたい、という思いが込み上げてきた。命が尽きるまでにと、焦る思いで本を執筆し、共同出版した。

やっと“一人前”の小児科医に

写真:ウォーキング

田村さんは、学生時代にキリスト教の洗礼を受けたクリスチャンだ。「落ち込んでもまた前向きに生きることの支えは、信仰にあります」という

今は朝5時過ぎに起きる。立って、手を前後に振る気功「スワイショウ」をしながら、40分ほどイメージトレーニングをする。腹式呼吸をした後、ウォーキングへ。「大丈夫だよ」と、自分自身に言い聞かせながら、約1時間早足で歩く。夕方は、1時間半かけてストレッチをする。ハーブティーを飲んで、午後10時には寝る。

食事は玄米菜食を中心に、バナナ、ショウガ入り納豆、青汁、キウイとトマト、ニンニク、卵にヨーグルト、牛乳、チーズなどを欠かさず摂る。加えて乳酸菌飲料に整腸剤、そしてさまざまなサプリメント、さらに、風邪予防や抗がん作用のある漢方薬を続けている。これらに年金収入の多くを注ぎ込んでいる、という。

「まだまだ死にたくないから(笑)。子どもたちやお母さんたちに『大丈夫だよ』とたくさん言い続けたいのよ」

そして昨年2月、骨転移が消えた。

現在、小児科医としての仕事は、予防接種と乳幼児健診、育児相談などだ。

いつしか、乳幼児健診でお母さん1人ひとりにこう語りかけていた。

写真:診察に訪れた男の子と
診察に訪れた男の子と

「うまくやってるよ、お母さん。こんなに上手に育ててすごいなあ! 大丈夫。僕が責任を持つよ。何かあったら、僕に言って」

かつては、万が一のリスクを考え、「大丈夫」などと軽々しく言えなかった。

「今は目の前の子どものすべてを受け止められる。何も怖くないんです。『生きる』という映画の主人公がにこっと笑って前に進んでいった、あの気持ちがわかる。小児科医としてはじめて一人前になれたのかな、という自負がありますね」

今でも走れないし、左足はしびれたままだ。抗がん剤をのんでいるから、あと2~3年は外来診療が再開できない。それでも、何かが田村さんの中で変わった。

「椎間板ヘルニアのときは、小児科医として十分に仕事が『できていない』と悩んでいました。それが今はね、外来診療ができなくたって、仕事が『できている』と思える」

最近、高校生のころと同じだ、と感じる。

「“奇跡を生むんだ”という意気込みでがんばっている自分に気づいたんです。がんが治る、あるいはがんと共生するという大きな目標に向かって、一生懸命生きる。青春ならぬ、『がん春』だね」


田村さんおすすめの詩

「病気になったら」(晴佐久昌英)より

 病気になったら、必ず治ると信じよう

 原因がわからず長引いたとしても

 治療法がなく悪化したとしても

 現代科学では治らないと言われたとしても

 あきらめずに道をさがし続けよう

 奇跡的に回復した人はいくらでもいる

 できるかぎりのことをして、信じて待とう

 またとないチャンスをもらったのだ

 信じて待つよろこびを生きるチャンスを



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