命をいかすために、自転車世周一周の旅再出発 自転車冒険家・エミコ・シールさん

取材・文:塚田真紀子
撮影:谷本潤一
発行:2005年2月
更新:2013年8月

「死にたくない!」

2001年1月、ゴールまであと10カ月というところで急遽帰国した。大阪の大学病院の医師も深刻な顔で言った。

「今、生きているのが不思議なぐらいだよ。旅行を続けていたら、行き倒れてたよ」

「先生、私はあと1年ぐらいですか?」

医師は苦しげにうなる。

「じゃあ、半年?」

「うん……」

半年もつかどうかも、怪しいらしかった。抗がん剤治療でがんが縮小した後に、準広汎子宮全摘術を受けることになった。

病室に、自転車雑誌の編集長がお見舞いに来た。開口一番、彼はこう言った。

「もう書かなくていいから」

「いえ、全部書かせてください」

中途半端がイヤな性格だ。帰国するまでの旅の物語をすべて読者に伝えたい。病気で連載を中止するのは、自分に負けるようで許せない。すぐに次回の紀行文を書き始めた。旅の写真を入れた毎月3頁の連載だ。治療の副作用で吐き気や倦怠感があっても、少しおさまると気力でつづった。

そのころは「死にたくない!」という恐怖感にとらわれ、がんを全部取り除くことしか頭になかった、という。

「ずっと、もう死ぬんやなぁと思ってた。よくて2年かな、3年かなぁってね」

遺書のつもりで、旅とがんの体験についての本も書き始めた。

“いい人”ががんになる

写真:入院中

6カ月半の入院生活中、抗がん剤治療で長かった髪がばさりと抜けた「余命半年」と宣告され、毎日日記をつづる。「泣いてても1日、笑ってても1日。ならば残りを笑って過ごそう」と決める。2001年3月24日(

入院中、がん患者の女性たちを見ていると、自分のことは二の次、という人が多かった。お見舞いに来た人にお菓子をあげていたり、他人の世話を焼いていたり。ある人は、病院を抜け出し、両手に大きな買い物袋を提げて帰ってきた。驚いて聞くと、息子に持たせようと買ってきたのだという。

「息子さんて、22歳と24歳なんですよ。『私がしてあげないと』と言うから、『今、がんなんですよぉ』と言って。そんな感じの人ばっかしやったね。みんなで『“いい人”ががんになるのよねー』って笑ったの」

エミコさん自身、「周囲の人に応えなくちゃいけない」という気持ちが強かった。入院中から、毎日手紙の返事を5通ぐらい書き続けた。もらった手紙がたまると、ストレスになる。退院後も、枕元に「レターセット」を置き、起き抜けにまず3通書くのが日課だった。ホームページの掲示板への返事も書き続ける。

2002年1月にエミコさんの著書『ガンを越え、めざせ地平線』(鹿砦社)が出版され、新聞や雑誌・テレビで活動が紹介されると、“みんなのエミちゃん”になっていく。殺到する声援にせっせと応え続けた。

2年目でふっきれた

また、外出できるようになると、写真展やら飲み会やら、友人・知人からの誘いが押し寄せた。“付き合いとノリのいい”エミコさんは、つい出かけてしまう。「死ぬ前にいろんなものを見たい」と焦ってもいた。楽しいけれど、病み上がりの身体だから、すぐに疲れてしまう。週に5日出かける「ハードな生活」を続け、消耗していった。

発病の2年後のある日、書き込みのタイミングがズレたのだろう。

「エミちゃん、あの人には書いてあげて、どうして私には書いてくれないの!?」という声を人づてに聞き、がくっときた。「ちゃんと返事を書いてあげたら、みんな喜ぶよ」と忠告された。

〈私って何? ただの病人なのよ!〉

そう言いたかった。毎日が辛く、人と会うのがイヤになっていく。ホームページへの書き込みもプレッシャーに感じ、憂うつな顔でパソコンに向かう。その様子を見ていたスティーブさんがストップをかけた。

「やめ、やめ! もう書かなくていい」

そこでエミコさんは我に返り、掲示板を見るのも、書き込むのも止めた。

同じころ、ある人にこう言われた。

「あなたは生きているだけでいいの。今は、それがお仕事なのよ。手紙の返事や年賀状を書かなくたって、あなたのこと忘れる人、いませんよ。あなたが元気になって旅を始めたというニュースを聞いたときに、そこからメッセージを受け取るわ」

そのとき、何かがふっきれた。生きるために、身体を治すことだけを考えればいい、と確信が持てた。書き物の仕事もやめた。そして、ずっと町の暮らしに息苦しさを感じていたから、田舎に引っ越した。

「十何年間、自転車で自然の中を走ってきたでしょう? 満天の星を見ながら寝袋で寝たり、ローソクの明かりで生活したり。テントから出ると、そこは土なのね。虫や動物、植物に囲まれて、太陽の光を浴びて、風を感じて。そういうのが恋しくて」

身体が変わった

入院中、身体にいい食生活を“研究”した。野菜をたっぷり採り、がんが好む動物性タンパク質は控える。退院以来、そんな食生活を続けている。「田舎暮らし」でも食事の中身はそんなに変わらない。

だが、田舎で1カ月暮らすと、身体が変った。以前は疲れやすく、喉や頭が痛くなり、すぐ風邪をひいた。それがなくなった。今では、貧血や腫瘍マーカーの数値がぐっとよくなり、病気になる前の身体に近づいている。水と空気が変わったせいか、スティーブさんの喘息発作も出にくくなった。

毎朝、6時に起きて畑に出る。野菜たちに話しかけ、土をいじる。間引きした葉っぱを洗って口にほうり込む。自転車のトレーニングは週に2回、家と奈良駅間(片道13キロ)を往復する。

あとは月に1度の買い物と、講演のために外出するぐらいだ。スティーブさんが、世界で撮影した写真を売り、英語の家庭教師をして稼いでいる。

エミコさんがしみじみとつぶやく。

「気を遣わないところが一番いいよねぇ」

田舎には、「人里離れてさみしい」というイメージがある。友人も心配してくれる。

だが、エミコさんにとって田舎は“にぎやか”で、さみしく感じることはない。

台所の物音に気づいてのぞくと、イタチが食べ物をあさっている。ネズミと出くわしたときには、ネズミが「キャー」という顔をして一目さんに逃げていった。ムカデやクモ、ヘビなど、いろんな動物がぞろぞろいる。虫も雑草もいっぱいだ。

「夏なんか汗のついた帽子を1週間も放っておくと、カビが生えますよ。みんながむしゃらに生きてるわけよ(笑)。見ているだけで、こちらも生命力が高まってくるのよ」

畑でさまざまな野菜の種をまき、育て、その生命力を食べる。自然の中で「生かせてもらっている」生活が、エミコさんを蘇らせた。夏が過ぎたころ、また旅ができると思えたのだ。エミコさんにとって、旅は「戻りたい」のレベルではない。十代からずっと旅をし、旅はもはや人生そのものだ。だから、「戻るんや」となる。この大きな希望があったからこそ、「余命半年」の状況を生き抜くことができたのだろう。

命を“いかす”ために行く

写真:夕日を浴びて走る

夕日を浴びて走る。アムステルダムにて(

途切れた旅は、同じ季節から始めたかった。2004年12月下旬、気温がマイナス20度のパキスタンに向かう。

旅のスタイルは変えることにした。残り10カ月分の旅を4回に分け、1回のツーリングは3カ月間だけ。のんびりと焦らずに、2007年のゴールを目指す。スポンサーもつく。疲れ過ぎないように、時々ホテルにも泊まる。今回の目的地はインド。左右対称の美しい建築物、タージ・マハールだ。

「今までの旅は“前進あるのみ!”でした。病気になって初めて、休むことも、振り返ることも、時には必要だと学んだ。私にとってはすごい進歩ですね(笑)。がんに対して今は、『成長させてくれて、ありがとう!』って思ってる」

もう再発を意識しなくなった、という。

「今はがんと一緒に生きているけど、もう自分の細胞だと思っていて、病気のことは『いい経験だったよ』ぐらい(笑)」

少し前、エミコさんは高野山の奥の院に自転車で出かけた。そこで1枚の看板を見て、衝撃を受ける。何の看板かわからない。たった4文字だけ、こう書かれていた。

【いかせ命】

自分へのメッセージと感じ、心に刻んだ。世界一周の旅を再開するのは、死にに行くのではない。自分の命をいかすために行く。

「遠くにある目標を見据えて生きると、今、何をして、何を切り捨てるべきかがわかってくる。今しか見えてないと、わからないの。がんになった人にはこう伝えたい。『もう今は、自分のために生きてもいいんじゃないですか? 本当にしたいことだけやったらいいんじゃないですか?』って」

取材を終え、帰り支度を始めると、エミコさんが台所からザルを持ってきた。

「野菜、持ってってねー」

畑へ行き、大根やカブ、里芋を抜いてくれる。「これ、おいしいの」と大麦やドライフルーツのシリアルまで持たせてくれる。

「花はどう? 持っていかない?」

まるで実家の母みたい。サービス精神旺盛で、ほんま「気ぃ遣いぃ」の人だ。

段々畑が金色に輝く夕暮れの山里で、姿が見えなくなるまで、大きく手を振ってくれていた。


写真=スティーブ・シール撮影


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