希望を持って生きなければ、人間として生まれた甲斐がないですよ ジャーナリスト・患者会「金つなぎの会」代表・広野光子さん
先立った夫

1年間、入退院を繰り返し、次の抗がん剤治療に向けて自宅療養をしていたころ、夫の目からは輝きが失われ、お酒の量が増えていた。夫は昭和一桁生まれで家のことは妻任せという人だったから、「自分が先立つ」つもりの広野さんは気が気ではない。
「お父さん、あなたがシャンとしてくれなかったらどうするのよ」
「心配するな。俺が死んだら、おまえはラクになる。子どもを連れて実家へ帰れ」
「何言ってるの、私のほうが先に逝くんだから。それより、自分の老後を心配してね」
2月下旬、次男の結婚式があと1週間に迫った日、夫が大量の血を吐いた。食道静脈瘤が破裂したのだ。肝臓は以前から悪かったが、決して病院に行こうとしなかった。入院翌日に意識がなくなり、3日後に亡くなった。63歳だった。まるで散る時期を迎えた桜の花が、風もないのにハラハラと散ってしまうような逝き方だったという。
「先に逝くはずの私が生き残り、長寿の家系でスポーツマンの夫が亡くなった。思ってもみなかったことです。『死ぬも生きるも天命のまま』。そんな死生観を持ちました」
葬儀の翌日、夫が残した品を息子たちと探してみると、セカンドバッグから手帳が出てきた。最後の頁にこう書かれていた。
〈光子=卵巣がん3期、大網、直腸等5カ所に転移。5年生存率40パーセント〉
その後、広野さんは主治医に「本当は末期だったんですか?」と聞いてみた。主治医の返事から、乳がんと合わせると、「余命半年」とみられていたことがわかった。
そこまで深刻な状況とは、広野さんも息子たちも医師から聞かされていなかった。夫1人が重荷を背負っていたのだった。
「夫は1人で生きる人生よりも、先に死ぬことを選んで逝ったのでしょうね」
がんを「びっくりさせる」活動へ


1年半の傷病休暇を経て、広野さんは13年半在籍した会社を辞めた。今でも、その話に及ぶと、悔しさをにじませる。
「辞めたくなかったんですよぉー。介護と仕事の両立はがんばって乗り越えたのに、がんで辞めさせられることになった。このたまらない悔しさ! 一体私がどんな悪いことをしたの!? ��いう気持ちでしたね」
退職の挨拶の帰り道、知り合いの産経新聞の女性記者に出くわし、立ち話になった。
「悔しいから、闘病記を書いてるんやけど」
「面白いやないの。紙面を提供するから、書いてみたら」
広野さんの心が弾む。早速、東京に行き、塩沢ときさん、厚生省(当時)、国立がん研究センターなどに取材し、連載「がん闘病記・金つなぎの茶碗」がスタートした。
「金つなぎの茶碗」は、広野さんの造語だ。ひびが入って使えなくなった茶碗を金で繕う「金継ぎ茶碗」のように、がんを患った自分も“金”となる人たちに支えられた、という意味が込められている。
連載が始まると、読者から「会いたい」という電話や手紙が数多く寄せられた。そこで記事の中で「JR大阪駅の噴水広場で会いましょう」と呼びかけた。
1995年4月22日、掲載紙を手にした広野さんの周りに、わっと23人の仲間が集まった。その出会いの瞬間の熱気に広野さんの体は総毛立ち、口からは思いがけない言葉が飛び出した。
「お互いに励まし合いながら“癒し”をテーマに生きてみましょう」
その時、「がんを明るく前向きに語る・金つなぎの会」が発足した。初企画は、温泉ツアーだ。「季刊・金つなぎ」という新聞の発行も始まった。
その後も鳥羽、ニューヨーク、箕面、熱海、金沢、イタリア、香港など、これまで100回以上の「金つなぎの旅」をしてきた。キャッチフレーズは「非日常のうきうき・わくわくイベントで自己免疫力・自然治癒力を上げましょう」だ。集いではお揃いのピンク色のハッピを着て、さらに気分を盛り上げる。
「日常生活の中でがんが発症したなら、非日常の体験でがんをびっくりさせて免疫力を上げましょうよって。旅行に行くたびにパワーがわいてきます」
「心を変えて」生き延びる

新聞連載は3年半続き、1998年、『きっと良くなる必ず良くなる』(PHP研究所)が出版された。なぜ「きっと」「必ず」と言い切れるのだろうか。
「強く言い切ることで『力』が生まれます。希望を持って生きなければ、人間として生まれた甲斐がないですよ。がんのおかげで、残りの人生を自分らしく生きられます」
広野さんは五つの理念を掲げた。
*同病相楽しむ
*がんを恐れず侮らず
*天は自ら助くる者を助く
*信ずる者は救われる
*死ぬも生きるも天命のまま
このほかに「明るく、強く、前向きに、志高く、華やかに」というモットーがある。
医師に「もう打つ手がない」と言われてからが金つなぎの仲間たちの闘いだ。
「私たちはあきらめない。医師の見立てより長く生き延びる人も大勢います。がんになったらもうすべては終わるという、マイナスの発想法をとっている限り、がんは元気づいていく。実は医療者の人は余命宣告通りに亡くなっていきます。“常識”があるだけに、あきらめてしまうんでしょうね」
仲間を見送る

2000年。会を立ち上げて5年経ったとき、解散を考えたことがある。理念やモットーを元に、これからは各自が自分なりの闘病をしていけばいいと思ったからだ。運営費用の負担も大きかった。ところが仲間のある女性が強く反対した。
「だめよ、広野さん! あなたがやめたら、生きられる人まで死んでしまうのよ。生きている限り、金つなぎをやってくれないと」
「そう? じゃあ、私が死んだとき、『ええ人生やったね』と拍手してくれる?」
「もちろん!」
同じころから、死生観にかかわるお花見や蛍狩りの集いを開くようになった。「死を迎えるまで、がんばって生きなくては!」と病友に思ってもらいたいから……、という。
なぜか? 次々に亡くなる仲間の死に動揺し、「縁起が悪い」と不安を感じる人たちがいるからだ。
広野さんに言わせれば、先立つ人はつらいことを持っていってくれてなおかつ自分の思いを遺していってくれる「ありがたい存在」だ。仲間のお葬式は、「『あなたの思いを引き受けて生きるわね』と誓う場」と位置づけている。「もちろん!」と言った女性も今年3月に逝った。末期であっても「明るく強く」、7年を生き延びたという。
現在、会員は1623人で、6カ月の赤ちゃんから85歳の女性までと幅広い。会員には、旅費を自分で稼ぐことを勧めている。
広野さんは今、お酒のコンサルテーション会社の広報の顧問として働いている。週に2回は京都での会議に出席し、全国に出張もする。関連する酒店のメーリングリストのやりとりなど、1日500~1000通のメールに目を通し、返事を書く。これだけで毎日2~3時間は費やす。金つなぎの会の病友たちへのメールや、入会希望者に資料を送る作業などをしていると、夜が明けることもあるという。
今回の取材も夜から始まり、ふと気づくと午前5時だった。サービス精神が旺盛で、話し出すと止まらない人だ。
広野さんは今では、睡眠不足や食事に気を遣う。翌朝は10時に起き、黒米のご飯とエノキやわかめなどが入ったみそ汁、トマトなどの生野菜の朝食をふるまってくれた。
その後、2人で特急電車に乗り、大阪に向かった。広野さんは仲間のお葬式に向かうため、黒のパンツスーツ姿だ。混み合った車内で一つ空いていた席を私に勧めると、やさしい笑顔を残して、自分は車両の前のほうの席へと行ってしまった。
その後ろ姿は背筋が伸び、颯爽としていた。モンローウォークのように、悠々とリズミカルに歩く。急がず、楽しげに。
そんな足取りは、今の広野さんの生き方そのものだった。
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