困難をいくつも乗り越えているうちに、「自分の本当の姿」が見えてきた ミュージシャン・KOUTAROさん
漆黒の闇の底に落ちていく
ガンマナイフの治療では、ガンマ線を照射する焦点がずれないように、頭に金属の枠を取り付ける。額と後頭部に各2本のネジを、頭蓋骨に食い込むまで、ぐりぐりと締めつけていく。
枠をつけて横たわるKOUTAROさんの体がベッドごと移動し、頭部がガンマナイフの装置に入っていった。手術着姿の体は手足の指先まで冷たくなっている。照射のときは、部屋から医師が退出する。数分間は1人きりだ。心細い感覚に身がすくむ。まるで漆黒の闇の底にどこまでも落ちて行くような恐怖感に襲われた。
ところが突然、友人やファンからの激励の声が、KOUTAROさんの全身に響き出した。「がんばれよ」「がんばってください!」
前日に目を通した、100枚ほどのメールの言葉が声援となって、一斉に聞こえてきたのだ。熱いものが心に湧き上がり、勢いよく手足の先まで広がっていく。
「自分は一人じゃない、この人たちの間で生きててんなぁと実感しましたね。急に強くなりましたわ。『何があっても、絶対に負けないで僕は病気と闘おう』と誓いました」
「がん患者」を受け入れる

病気になる直前、KOUTAROさんはいつも「ミュージシャンです」と言わんばかりのファッションで決めていた。ウェーブのかかった長い髪にサングラス、胸をはだけたシャツにピタッとした細身のパンツで、歌い、ギターをかき鳴らしていた。
ところが、抗がん剤治療をしている間に、自分の姿形がどんどん変わっていく。髪は抜け落ちた。病気に打ち勝つために必死で食べているうちに、12キロ太っていた。
それでもいつか以前の自分に「復帰する」と考えていた。健康なころの生活の余韻が残っていて「がん患者」になりきれないのに、「死」の恐怖にばかりとらわれていた。
そんなある日、“以前の自分”への復帰などあり得ないことだと、気づいたという。
「今、この瞬間も、時は流れているねんなぁと実感したわけです。命の危ない病気ということで、ずっと『死ぬ、死ぬ』と思っていたけれど、手足は動くし、痛みはまだない。 “病気の今も自分の人生や”ととらえて、やりたいことを負けずにがんばることが大事やと思えるようになりました」
それを聞いた友人たちが、「ライブをやったらどうや?」と提案した。
2002年2月21日。大阪のライブ会場には、全国から友人のミュージシャンやファンが集まった。友人たちが1~3曲ずつ歌い、会場に熱気が溢れる。退院後間もないKOUTAROさんの出番が来た。「SAZANAMI」の前奏が静かに流れる。
黒いニット帽に皮ジャン姿のKOUTAROさんがそっと目を閉じ、言葉を味わうように歌う。歌の最後には、祈るように胸の前で両手を組んだ。演奏が終わると、バンドのメンバーと抱き合う。観客だけでなく、メンバーも泣いていた。
「マイクの前が、僕が生きてきた居場所でした。やっと戻ってこれた。マイクにほお擦りするような気持ちで歌いましたね」
その晩、「この世のもんとは思えないほどの幸せ」に包まれていたという。「がんだから不幸」ではないことを知る経験だった。
音楽が変わった

病気以後、2度目のステージでのことだ。無心で歌うKOUTAROさんに、観客席からすすり泣きが聞こえてきた。一人や二人ではない。たくさんの人が涙を流しながら聴いている。
「そのときに、自分の歌が前とは明らかに変わったなあと思いました。病気以後の僕の音楽は、技術やとか、演じるやとか、そういうものをもう飛び越えてしまって、別なところで歌ってる感じがします。全部が『ほんま』なんですよ。僕が書いた詩やメロディーを、なりふりかまわず、本気でみんなに伝えたい。ライブは、集まった人たちと僕の人生が交差する『出会い』です。目の前の人たちは“お客さん”じゃない。初対面でも、昔からの友人のようです」
妻・美智代さんも、変化を感じている。
「歌は昔からものすごくうまいんですよ。明るさも天性のもの。けど病気になって、人に対しての深みが出てきました。それが聴く人に伝わるのかな。ええカッコで言うたら“魂”が入ったんかもしれません」
闘う姿に、病気だけではない、さまざまな困難を抱える人たちが敏感に反応する。ライブの後などに、「私も闘っています」と、直接声をかけてくれるという。
63歳の肺がんの男性は、KOUTAROさんを知り、元気を取り戻した。連絡を取り合い、ライブの本番前に初めて対面した。その瞬間、二人の男が抱き合って泣いた。
「共通のものがあるんですよ。痛みや辛さ、大変さをお互い乗り越えて、分かち合える同志のような、一体感がある。
今は『現場』におるような気がするんです。激しく震えている、バイブレーションの出ている中心にね。それが『闘う』ということなんやと、最近思います」
「本当の自分」と出会った

取材中、音楽仲間から電話がかかってきた。彼と二人、2004年6月ごろに大阪と神戸でライブをする予定だ。6月といえば、医師から「(余命は)最悪の場合、半年」と言われた期限にあたる。
「そこにスケジュールを入れてるのがすごいやろ?(笑)」
屈託のない表情で、おかしそうに笑う。
これまでにガンマナイフの治療を3度受けた。肺の腫瘍は抗がん剤で繰り返し叩いてきた。使える抗がん剤は一通り使ったという意味で、「最悪、半年」と言われた。
それでも落ち込むのは一時のこと。また立ち上がって、前進する。10日闘っていれば、1日落ち込んでも、また次の日に立ち上がれる。そんな“闘い癖”をつけることで、辛い状況を幾度も乗り越えてきた。
がんは「逃げられない現実」だった。それが目の前に立ちはだかったとき、KOUTAROさんは心の中の不安と恐怖をぐっと押さえつけて、真正面からぶつかっていった。闘い続けるうち、くだものの皮をむくように、「本当の自分の姿」、すなわち今のKOUTAROさんになったという。
「僕の『役割』が見えてきました。『絶対、負けないでがんばりましょう!』と、先陣をきって、希望の旗をかかげていくのが僕の役割で、そのために、僕は音楽をやってきたんじゃないかなって、最近、思うんです。
困難は万人に訪れます。そこで逃げたり拗ねたりせずに、勇気を持って乗り越えることが『人生』なんやないかな。
生きている限りは、『生命』を讃えながら生きないと僕はウソやと思うんです」
KOUTAROさんが声高らかに歌えば、聴く側は「限りあるいのち」の大切さに気づく。今、この瞬間、“自分が生かされているよろこび”に共感し、胸が熱くなるのだ。
バラ色の人生
振り返れば夢のようさ
陽の当たる光浴びて
夢駆け抜けた
振り返ればすべて夢のようさ
振り返れば
すべて懐かしくて……
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