娘を亡くした後にも再び「喪失」があるとは、思いもしませんでした インフルエンザ脳症の会【小さないのち】代表・坂下 裕子さん
手術中に「いややーっ」
手術前、坂下さんは自分の腹部をそっとなでながら、子宮と卵巣に別れを告げた。
手術台で、執刀医に声をかけられた。
「今から始めます。いいですか?」
「いややーっ」
スタッフたちが驚き、一斉に顔を寄せる。
「もう一人だけ、赤ちゃんを産んでからにしてほしかった……」
涙声になっていた。主治医が言った。
「あなたの命を守ることを考えようね」
その言葉にうなずきながら、全身麻酔で眠りに落ちていった。
術後、摘出した子宮に、いとおしさを感じたという。
「赤ちゃんを2人産んでくれたところ。お礼を言いたいような気がしました」
坂下さんのほおを涙がつたう。
麻酔が醒めても、尿意と便意はまったくなかった。これはリンパ節の切除手術で、膀胱や直腸につながる神経が切れたことによる「機能障害」だ。トイレで座っても、おしっこは1滴も出ない。看護師に管を入れて、おしっこを出してもらう。同性とはいえ、抵抗感があった。また、きばっても出ないのに、膀胱に溜まり過ぎると尿が漏れてしまうことがある。おしっこの広がったシーツを見て、立ち尽くしたこともあった。「自分で出したい!」と、自己導尿に挑戦した。
ところが、そのころから管に皮膚がかぶれるようになった。かゆくて眠れない。うとうとしている間に無意識にかき、ただれてくる。悲しい顔で女性医師に訴えた。
「先生、おまたが~」
「仕方がないから、がんばって」
睡眠不足で気分はどんどん滅入っていく。
おしっこがつながった
そんなとき、ある看護師がこう提案した。
「自力で出す量を増やす努力を徹底して、導尿は夜だけにしましょう!」
暗闇に一筋の光が差すようだった。
いちばん狭いトイレを選んで、尿カップを持って入る。ハーハーと息を切らせながら、壁に頭をもたせかけて100回きばった。最初1滴、2滴だったのが、2カ月を過ぎたころ、一瞬、つながった。全身筋肉痛になりながら、300~500cc出せるようになった。かゆみから解放された。
このころ、排便のための強力な下剤と浣腸で、お尻もただれて四六時中痛かった。
坂下さんが切なげに言う。
「悲しかったなぁ。てき便(指で便をかきだす処置)もしてもらいました。情けなくて、悲しすぎて。先が見えなかった。おしっこと下痢、両方のトラブルで、1日の大半はトイレで過ごしていました」
さらに術後1カ月から抗がん剤治療も始まっていた。全身がしびれて痛くなった。点滴後の3日間は嘔吐もひどかった。リンパ浮腫でも足がしびれる。大変なことが1度に押し寄せた。
坂下さんが急に声を落とす。
「身体と心が弱っていきました。手術前、��悔しい!』と勢いを持っていた気持ちが、どんどん萎えていっちゃった……」
食べられず、眠れない日々が続き、自暴自棄になり始めていた。がんになり、再び自分が見放されたような、「この世の孤独」を感じた。自分の身体の異変に気づけなかったことで、すっかり自信をなくした。よりどころを失い、うつ状態に陥っていった。
小児科医たちに守られた

あゆみちゃんが亡くなったとき、坂下さんはどう生きていけばいいのか、わからなくなった。「がんばれ」と励ますだけの親たちに、本音は出せない。そのとき頼りになったのは夫・喜一さんだった。話を聞いてくれる。一緒に泣いてくれる。気持ちを1つにして、何年も支えあって生きてきた。
ところががんでは、そうはいかなかった。
質が悪いとされる「腺がん」とわかり、坂下さんは、帰宅した夫に泣きついた。
「私、たぶんそんなに長くないよ」
すると、喜一さんは坂下さんをかき抱いて泣き出した。
「……死んだら、いややー。頼むから、死なんとってくれー」
喜一さんの取り乱した姿を見たのは初めてだった。子どもを失った親として、2人とも弱っていた。彼をこれ以上、「心の揺れ」の道連れにはできないと感じたという。
「夫が何かに守られていてほしい、私と違う何かを手に入れてほしい、と心の中で願いました。趣味のスポーツや友だちと飲みに行くことを勧めました」
一方、坂下さんは、これまで活動をともにしてきた小児科医たちによって、絶望の淵から引きずり上げられた。病室に何人もの小児科医が駆けつけ、「また一緒にやっていこう」と、厚労省の研究班の仕事や講演などの計画を立ててくれた。打ち合わせをしていると、気持ちが外の世界に飛ぶ。
「ふと我に返ると、私はパジャマを着て、頭にバンダナを巻いて、スリッパ履き(笑)。小児科医は、体当たり的に小さくて弱いものを守ろうとしている人たちです。だから自然と、言葉にやさしさがにじみ出る。『あなた一人につらい思いをさせないからね』『ぼくにできることがきっとあると思いますから』。退院したら、小児科に根を下ろして貢献していきたいと思いました」
「いのちの授業」の資格がない!?
![写真:[小さないのち]活動風景](/img/sv_02/07/04.jpg)
手術の4カ月後、坂下さんは退院した。その日はまっすぐ帰宅せず、小児救急医療を考えるシンポジウムの打ち合わせのため、病院から神戸に向かった。たちまち手術前の忙しさが戻ってくる。
ある晩、徹夜で「いのちの授業」の構成を練っていた。小学生を前に、あゆみちゃんやがんに関する体験、思いを包み隠さず話す。いのちと向き合う作業がしたかった。昼間は音楽の仕事や【小さないのち】の活動ですでに手一杯だ。睡眠時間を削ってでも、約束を果たしたいと、意気込んでいた。
そこへ、トイレで起きた大樹くんがやってきて、厳しい顔で言い放った。
「お母さんは全然わかってない! いのちの授業をする資格なんてない。自分の命を削るようにして努力することは、いのちの大切さを伝える人のすることじゃない。病気になったのに、なんでわからないの?」
以前の坂下さんなら、「子どものくせに何言ってんの。大人の世界はそんなに甘くないんやで」などと、一蹴していただろう。ずっと「身を粉にしてでも、がんばること」が“善”だと信じていた。
だがこのときは、大樹くんの言葉を素直に受け止めた。自分でも、これ以上全力疾走すれば、せっかくつながった命が途切れるような気がしたからだ。考えた末、音楽の仕事をやめた。「自分にしかできない活動」を続けるためとは言え、これまでなら考えてもみなかったことだという。
「私、変わったなぁと思うんですよ。自分の体力や能力を過信する傲慢さがなくなりました。すごく謙虚になった。『強い大人が守るものだ』と思っていた子どもという存在を、対等にみるようにもなりました」
遺族にも「喪失」がある

自分ががんになるのは理不尽だ、と思いつつも、坂下さんに「心当たり」はある。あゆみちゃんを失った大きなストレスだ。
「落ちるところまで落ちて、どん底からはい上がってきた私に、もう1度喪失がありました。心も身体も弱った遺族は、病気になってしまう可能性が高い。死別前後の遺族を守らなければ、と会議で伝えています」
取材中、大樹くんが友だちを連れて帰ってきた。「こんにちは」と元気よく挨拶をして、隣の部屋で友だちとゲームを始める。あわてて帰り支度をし始めた私に、大樹くんがつぶやくように言った。
「この家に遠慮という言葉はない」
腹を割って話せそうな子だ。
土日は夫の喜一さんが大樹くんと過ごし、坂下さんは活動に没頭する。坂下さん一家は、深いところでお互いを支えあっている。
「大樹が高校生になるまで、あと5年は生きたい。やっぱり死にたくない。あゆみは私が生き抜いたところで待っていてくれるような気がするんです」
不安は消えることがない。
それでも坂下さんは、自分の役割を果たせる毎日に、大きなよろこびを感じている。
「時々、用事を詰め込み過ぎて、大樹の視線が怖いんですよ」
とまぶしそうな顔で笑った。
【小さないのち】
連絡先(坂下さん方) 電話06―6390―0585 メールはこちら
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