がんこそ人生の意味と向き合う絶好のチャンスです 臨床心理士、立命館大学教授・高垣忠一郎さん(59歳)

取材・文:塚田真紀子
撮影:塚本潤一
発行:2004年2月
更新:2013年8月

死の床にあった母の最後のユーモア

1990年、母のすい臓がんが見つかった。高垣さんは、病気のことを伝え、残りの命を十分に生きさせてあげたいと思った。

しかし家族ら周囲の人たちは、それにためらいを見せた。本当のことを言わないために、みんなが余計に気をつかい合う日々だった。

死の1週間ぐらい前のことだ。体中を管でつながれた“スパゲッティ状態”で、母親は眠っていた。そのおびただしい数の管を眺めながら、高垣さんはつぶやいた。

「母さん、ごめんな。つらい思いさせて」

すると、母は突然、目を開いて、言った。

「そんなこと言うんやったら、今すぐこの管を全部はずして!」

高垣さんは言葉に詰まった。とっさに、思いついたことを言った。

「母さん、まだお迎えの来るところまで行ってないやろ。管は、そこまで歩いていくための、杖みたいなもんや」

「杖やったら、こんなに何本もいらん。一本でいい!」

「……。本当に、せやなあ(笑)」

母はニタァと笑うと、また目をつむった。

これが母と息子が交わした、最後のはっきりした会話だったそうだ。

「参りました(笑)。最後までユーモアを持ち続けた、潔い最期でした。あるときは、眠りながら両手を頭のほうに上げるしぐさをした。病室の窓の外には桜吹雪が舞っていて、まるで、桜の木の下で、母が踊りながら成仏していったようでした。この経験で、死があまり恐ろしくなくなりました」

がんとインドへ旅立つ

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ガンジス川の流れは高垣さんの生と死を大きく包み込んだ、という

がんだとわかって約半年間、高垣さんは精神的に高揚した日々を過ごした。本を読んでは触発されて、性や死について考えを深めた。それがホルモン療法でがんが縮小し、PSA(前立腺特異抗原)の値が下がると、緊張が緩んできた。今すぐに手術を受ける必要もない。がんが「日常化」していた。

そこで計画したのがインドへの旅だった。ヒンドゥー教徒の聖地・ベナレスは、生と死が共存している場所だ。ガンジス川で子どもたちが嬉々として水浴びをする横を、人や動物の死体が流れていく。“異界”とも言うべき場所に身を置き、再び緊迫感を持って、死を見つめたい、と考えた。

しかし当時の高垣さんは、深夜、暗闇の中で突如襲ってくる「閉塞感」の発作を抱えてもいた。「がんから一生解放されない」という観念が頭に浮かんだとたん、叫びだしたくなるような恐怖を感じ、息苦しくなる。「がんになった自分」「死にゆく自分」に対して、なお��化する自分に逆らおうとする心があった。

それでも、高垣さんは2000年7月、長期の休暇を利用して、インドへ旅立った。そこで高垣さんは、かつての日本のような光景に出合う。

ハナ垂れ小僧が裸足で走っている。暗闇があり、電球の怪しげな光がある。路地を行くと、駄菓子屋があって、その奥には魔法使いみたいな老女が座っている。怖くて恐ろしげで、魅力的な世界だった。

ニューデリーで汽車を待っていたときのことだ。汽車に乗るためには、人でごった返す駅で、何時間も待たなくてはいけない。みんな寝転がったりして時間を潰している。

高垣さんもホームの片隅にゴザを敷き、座り込んでみた。通り過ぎる人の顔や犬の様子を眺めながら、物思いにふける。このコントロールの効かない状況に身をゆだねることは、栄枯盛衰を思い、「死にゆく自分」を受け入れる経験でもあった。

学生のころから、「自分がいったい何者なのか」が知りたかった。ずっと、他の誰のものでもない、「ぼくの人生」を生きることにこただわってきた。だから、がんでさえ、「ぼくの人生にとっての必然的な出会い」にすべく、真剣に向き合ってきた。

がんを十分に味わって「さよなら」

インドから帰国すると、高垣さんはようやく「もうがんを切ってもいいや」と思えた、という。自分なりに十分に考えることができたからだ。それに、翌年春からは大学院という新しい職場で、ハードな仕事が待ってもいた。手術を決めた。がんとの“同棲生活”は約1年3カ月におよんでいた。ホルモン治療によってがんが一回り小さくなっているものの、その後はホルモンが効きにくい傾向も現れていたので、その意味からも手術すべき段階に来ていた。

手術の結果、がんは切り取った前立腺の中だけにとどまっていた、という。手術は、いとおしい前立腺やがんとの別れでもあった。病室のベッドの上で、一人涙を流したこともある。

「手術後は、赤黒い前立腺が切られて、ゆらゆら揺れながら海の底に沈んでいくような、そんなイメージがたびたび浮かびました。そのたびにポロポロと涙が出てきて、『さよなら、さよなら』とつぶやきました。前立腺ががんを抱えて消えていってくれた。十分にがんを味わって、別れることができました」

がんになって「変わったこと」

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“性”を超えた“生”の異界に出合う。それががんからのメッセージだったのかもしれない

手術後、心配していた男性機能は、多少低下した。それでも、勃起力はあり、実際にセックスでドライオーガズムも経験した。

ところが、手術を機に、なぜか性的な関係を持ちたいと思わなくなった、という。

最近の高垣さんの日課は、朝晩に1時間ぐらい、インドのお香をたいて祈り、瞑想することだ。何も考えずに、ただ祈っている。

「今は、女性という舟に乗らずに、祈りや瞑想で“異界”に行く修練をしているんでしょうね。違う形で宇宙と一体化するような経験をしたい。まだきちんと説明できません。修行の真っ最中ですからね」

「セックスできるのに、なぜ?」と、その変化をもったいなく感じてしまうのは、私がまだ十分に「性」を味わい尽くしていないからなのだろう。

高垣さんは、以前よりずっと肩の力が抜けて、ほとんど自然体で過ごすようになった。とげとげした感情が影を潜め、腹を立てることがほとんどなくなった。「学生と酒を飲んでいると、自分の乳を飲ませる母親の気分」と目を細める。かつてフェロモンを撒き散らして生きていた色男は、もうそこにはいない。

「そう言えば、」と、高垣さんは何かを思い出したように言った。

「なりたい人間が変わったんです。今は、一緒にいると、ふっと懐かしさを感じてもらえる人間になりたい。がん体験がなかったら、そんなふうには思っていないんじゃないかな。いまだに、男の色気がいちばん大事で、ちょっと凄みのあるような人間にあこがれていたかもしれない(笑)」

かつての自分に「さよなら」をして、新しい自分と出会った。

「そのために、天ががんを贈ってくれたのかもしれない。粋な計らいですねぇ(笑)」

高垣さんは満足そうに笑うのだった。


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