残された時間を、支えてくれた人たちに持てる力の全てを出して恩返しすることに使いたい 「もう一度コンサートを」の目標が、膵がんを抑え込んだ・木村功さん
周りが皆、1つの目標に向かって動き出した

その日の夜、真弓さんは山崎さんに電話で手術の結果を伝えた。山崎さんはすでにそのことを知っていた。T医師が手術直後に連絡していたのである。そして真弓さんが木村さんの願いについて話すと、「すぐ取りかかる」といってくれた。実際、このとき山崎さんはすぐ宮城の友川廣人さんに連絡している。木村さんや山崎さんが古川高校のブラスバンド部時代に指導を受けた恩師である。
このときから木村さんの周りが皆、1つの目標に向かって動き出した。もちろん木村さん自身もである。
木村さんは何度も渡米し、ジャズプレイヤーとして活動するかたわらさまざまなセミナーなどにも参加してきた。そのたびに感じることが1つあった。日本では、自分も含めてジャズを志す人間は演奏方法などについて独学で修得しなければならないが、アメリカではジャズ科のある大学が180校以上あり、ジャズが学問として確立されている。だから木村さんが何年もかけて自力で学んだことが、アメリカの学校に通えば驚くほど短期間で学ぶことができる。
「これではいけない。日本でジャズプレイヤーを育てるためには、きちんとした教育機関を誰かがつくらないといけない」
そう考えた木村さんは、東京ジャズギルドオーケストラを結成する一方、初心者向けのジャズスクールを立ち上げ、ジャズファクトリーオーケストラ、多摩ジャズワークショップという2つのビッグバンドを育ててきた。国際ジャズ教育者協会の正規会員にもなっている。現在、木村さんが指導している生徒は約150人。その教え子たちも木村さんの病気を知ってからは、木村さんを助けたい、願いを叶えたいという一心で、さまざまに動き始めていた。
目標ができると体も元気になってくる
2004年12月13日から化学療法が始まった。使用した抗がん剤はジェムザール(一般名ゲムシタビン)。通常、駒込病院は入院の必要がない患者の化学療法は通院で行う。しかし化学療法を受けたことのない木村さんとしては、どの程度の副作用があるか不安だったので、最初の1クールだけ入院で行うことを要望したのだ。
抗がん剤の投与は週1回。3週間で1クールになる。当面、期限は設けずに治療を行うことになった。幸い、投与した日の夜に発熱する程度で、それほどひどい副作用は出なかった。そのため暮れも押し詰まった12月30日に退院した。
「入院中は生徒が持ってきてくれた寄せ書きとか写真を病室の壁にダーッと貼っていたものですから、先生たちは、『こいつは何ものなんだ』という顔をしていましたよ。生徒たちからは病院宛てに毎日のようにお見舞いのメールがきて、それを病院がプリントして私のところに持ってきてくれました」
嬉しそうに、そしてちょっと得意気に木村さんがいう。
年が明け、木村さんは週に1回、通院での化学療法を続けた。川崎市の自宅から駒込病院までの往復は、ほとんどいつも生徒が運転手役を買って出てくれた。生徒がインターネットで調べて持ってきてくれたフコイダンも飲み始めた。そのあと、別の生徒が奨める漢方薬も服用するようになった。
しかし退院後しばらくの間、木村さんは食欲が戻らず、体重は減る一方だった。
そんなとき、友川さんから故郷でのコンサート実現に向けて実行委員会が発足したことを告げられた。友川さんが代表を務める実行委のメンバーには60人以上が名を連ねていた。その中には古川高校時代からの木村さんの友人であるシンガーソングライター、さとう宗幸さんの名前もあった。
「4月にコンサートを開くことになったからな。それまではなんとしてでも生きていろよ」
電話でそう伝えてきた友川さんの声は、木村さんの心に温かく染み渡った。
「それを聞いて、これはやるしかないと思いましたよ。不思議なもので、目標ができると体も元気になってくるんですね」
がんが縮小し始めた
それからしばらくして、検査のため駒込病院にいったときのことだ。検査結果に目を通したT医師が木村さんのほうに向き直っていった。
「木村さん、何かしているんですか?」
がんが明らかに縮小し、腫瘍マーカーの数値も改善していたのだ。
化学療法が始まる前、T医師からは「ジェムザールを使っても、6カ月の余命が1カ月延びる程度にしか期待しないでください」と釘を刺されていた。ところがその後も検査をするたびに結果は改善していった。腹膜播種の状態は変わっていなかったが、これはうれしい誤算だった。
2月に入ると食欲も戻ってきた。入院以来、アルコールは一切やめていた。睡眠はたっぷり取るようにした。疲れることはしない、そう決めて木村さんは毎日を過ごすようになった。
「4月のコンサートが決まったときは、それまでもつのだろうかと思っていました。その頃は私のほうがしょっちゅう泣いていました。家で食事しているときも、もう外で一緒に食べることはないかもしれないと思って泣いたり。そうすると主人が『なんで泣くの、泣きたいのは俺のほうだよ』というんです。病気をする前はテレビでちょっと悲しい場面を見るだけですぐ泣いていたこの人が、病気をしてからは全然涙を見せなくなりました。だから退院してずいぶんたってから1度聞いてみたことがあります。そうしたら、『死ぬことが怖くないことはないけど、それよりやりたいことがいっぱいあるので泣いてなんかいられないんだよ』と。幸せな人だなって思いました」
木村さんに温かい眼差しを向けながら、真弓さんが穏やかな口調で語る。真弓さんは看病に集中するため今年の2月、長い間勤めていた病院をやめている。
また戻ってきます

その後、木村さんの体調は少しずつよくなっていった。スクールでの指導も週に2回、土日を利用して再開した。世田谷にあるスクールと自宅との往復は、生徒がたいてい車で送り迎えしてくれた。
「4月のコンサートに向けて、構成とか曲の紹介の仕方とかいろいろ考えて、アイデアがどんどん出てきました。コンサートのことばかり考えて、病気のことを考える暇なんてありませんでしたよ」
こうして迎えた4月のコンサート。自宅から古川まで木村さんは自らハンドルを握って車で往復した。ただ腹膜播種があるため腹筋に力を入れると痛みがあるので、コンサートで木村さん自身は楽器を持つことなく、指揮者としてステージに立った。客席には友川さんや古川高校のOBなど懐かしい顔ぶれがそろった。スクールの生徒も東京や神奈川から約100人が大挙して応援に駆けつけた。
木村さんの熱のこもった指揮に答えて、東京ジャズギルドオーケストラをはじめとする出演者の面々も渾身の演奏を披露。超満員の会場は圧倒的な感動に包まれた。

4月29日、故郷の宮城県古川市で行われたコンサート。
この舞台に立つことが目標だった

「自分が今までやってきたことが間違っていなかったと、改めて確信することができました。と同時に、自分は生かされているのだなと強く思いました。友人、生徒、恩師、そして妻、私は大勢の人に支えられています。そうでなければあのコンサートはあり得なかったでしょう。今は残された時間を、私の力を必要とする人のために、僕の音楽を聞きたいという人のために、持てる力を全て出してお返ししたいと思っています。今までそんなふうに思ったことはありませんでした。これも病気のおかげかもしれませんね」
4月のコンサートの模様は地元のテレビ局で放映された。それを見た木村さんの出身中学の校長と教頭が感動して、
「ぜひ生徒に演奏を聞かせてほしい」と申し入れてきた。すでに11月に古川市田尻町の文化会館で再びコンサートを開くことが決まっている。来年の4月にもコンサートが計画されていて、そのときは木村さんもサックスを演奏する予定だ。
「ジャズの理論書とか翻訳したい本も何冊かあります。だからまだ大きな目標がいくつもあるんですよ」
嬉しそうにいう木村さんの横で真弓さんが続ける。今年の8月に撮ったCTの画像では、がんは大きさを測定できないくらい小さくなっていた。
「4月のコンサートが終わったらガクッとくるんじゃないかとちょっと心配していたんです。でも次から次へとイベントがあり、そうなると燃える人ですからね」
古川市民会館のコンサートでは、アンコールに応えて演奏したのは「明日がある」だった。そしてステージの最後に木村さんは聴衆に向かってこういった。
「また戻ってきます」
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