カンボジアへの支援活動が闘病の支えに がんと共存しながら、最期まで目的を持って生きる・岡村眞理子さん
陽子線治療を治験で受ける


子供たちの笑顔の裏で、
内戦の傷跡は今だ深く残っている
陽子線治療は03年9月から始まり、全部で38回照射した。治療期間中はほぼ毎日通院した岡村さんによれば、「大型のCTより大型の機械に入り、1回の照射時間は1~2分程度」だったという。最初の1~2カ月はなんの変化もなかった。しかしその後は劇的な効果が現れ、全ての治療を終えたときにはがん細胞がすっかり消えていた。治療中、胸の皮膚が1部ただれたようになったが、そこの部分が剥がれ落ちたあとはほとんど元通りになった。
岡村さんはこの頃から手の痛みがひどくなり始めていた。陽子線治療の間も服用を続けていたホルモン剤の副作用だ。そこで医師と相談し、しばらく服用をやめていた04年の5月末、今度は超音波の検査で首と鎖骨の下に新たな影が見つかった。幸いこれはそれまでと違うホルモン剤を服用することできれいさっぱり消えた。
「がんが薬で本当に消えることがあるんだと思い、やったーという気分でした」
だが喜びもつかの間、秋になると再び病魔の影が忍び寄る。10月になると右胸の下に痛みを感じ始めたのだ。
静脈炎かもしれないということで抗生物質を処方されたが、1週間服用しても効果は現れず、逆に痛みが増していった。それまで任意団体だったASACをNPOにするため2月に発足総会を開き、7月に登記するなど、この時期、岡村さんは会の活動に忙殺されていた。11月には2回、カンボジアに行った。さらに年末から正月にかけては知人の結婚式に出たあと、休暇も兼ねて夫と父親とタイに滞在する計画もしていた。しかし12月に入ると右乳房がだんだん腫れてきたので月末に検査を受けることにして、12月25日、結婚式を終えたらそのままタイから帰国の途についた。おかげでスマトラ沖地震による大津波には巻き込まれずにすんだ。
CTや超音波、PETなど年末に受けた検査の結果を聞きに筑波大学病院に行ったのは、05年1月。この頃になると右乳房の下はスイカのように腫れ上がっていた。医師が下した診断は、炎症性乳がん。乳がん細胞が皮膚のリンパ管の中に詰まって乳房表面の皮膚が赤くなり、痛みや熱感を伴う炎症性乳がんは、病期としては3期以降に入る。進行の早い、予後の悪いがんだ。
すぐに6クールの化学療法を始めることになった。それも1番強い抗がん剤を、筑波大学病院���も前例のないほど大量に使ってだ。当然、強い副作用が予想された。医師は家族を呼び、「もしものこともある」と告げた。どのようなことが起きるか分からないので、最初の1カ月間は入院して治療を受けることになった。
治療の合間にもカンボジアに


現地の住民や子供たちと直に話し合いながら、
学校の設立を進めていく
1クール目の治療が始まったのは1月中旬。たちまち白血球数が急速に低下していった。
岡村さんはかつてトライアスロンをしていたことがある。過酷なトライアスロンのレースでは脱水症状を起こしたりブドウ糖が急低下したりすることがあるので、トライアスロンの選手は無理をしてでもものを食べる訓練をして胃を徹底的に鍛える。おかげで岡村さんは初めての化学療法のときも、食べることはできた。だがこのときは食べ物はおろか、飲み物さえ受けつけなかった。
「とにかく力が出ないしお腹も痛くて、本当に死ぬんじゃないかと思ったほどです」
それでも白血球数を上げる薬が効き、1回目の治療が終わる頃には白血球数はほぼ正常値に戻った。外出許可が出ると岡村さんはまず好物のラーメンを食べに行った。
治療開始から10日目頃からは髪の毛がごそっと抜け始めた。すると岡村さんは病院内にある床屋で、坊主頭にしてもらった。「抜け落ちるのを待っているのは嫌だった」からだ。
2クール目からの治療は通院で受けた。困ったのは白血球を上げる薬の注射をどこでしてもらうかだ。抗がん剤の投与は3週間に1回だから、柏の自宅から通うのに問題はない。しかし白血球を上げる薬の注射は毎日なので、筑波まで通うのはつらい。自宅から近いいくつかの病院に問い合わせたが、抗がん剤の治療をせずに副作用への対応だけするというのは例がないとして断られた。結局、ASACの活動に理解ある医師がこの役を引き受け、我孫子の病院で毎日注射をしてくれることになった。
6クール目の治療が終わったのは5月の初め。驚いたことに岡村さんはその月の20日にはもうカンボジアに発っている。いくつかの学校の開校式に出席したり、車椅子を贈呈したりするためだ。胸のしこりは半分くらいの大きさになっていたが腕には浮腫が出ていた。成田を出るとき岡村さんは車椅子に乗っていた。
「私が乗ればその分、車椅子の輸送費が不要になりますからね。向こうにいって現地のスタッフを叱咤激励しているうちに元気も加速していきましたし」
したいことをするのが一番の薬

2005年5月、最後のつもりでカンボジアを訪問
今、岡村さんはホルモン剤を服用している。化学療法の副作用で末梢神経に障害が出て、指先や足の裏が痛むため鎮痛剤も飲んでいる。機会があればまたカンボジアに行きたいと考えているが、このところ血圧が安定しない。ときには160~180くらいにまで上がり、目眩や激しい頭痛に襲われる。
「血圧が安定していないので、ある日突然ということがあるかもしれません。だからこの前、カンボジアに行ったとき、さよならをしてきました」
選挙監視のボランティアで初めてカンボジアに行ったとき、岡村さんは強盗に襲われ頭に銃を突きつけられたことがある。間一髪で地雷の爆発を免れたことも。だから「ちょっとやそっとのことでは動じない」と笑う。
「もう手術できる状態ではないので、がんとは共存するしかないですね。『あんた、私を殺さないでよ。殺したら自分も死ぬんだからね。ま、仲よくやっていきましょう』という感じです。日常生活でとくに気をつけていることはありません。お酒も飲んでいます。おいしいものを食べ、楽しいことをたくさんして、それが一番の薬と思っているんです」
どうしてそんなに笑っていられるのだろう。玉川温泉の青年と同じ疑問がふと浮かんだ。
「カンボジアの活動が私を支えてくれました。他にすることがなく病気のことばかり考えていたら、きっとまいっていたでしょう。でも病気のことを考える間もないくらい、会の活動で忙しかったんです。自分の体の中でどこかがボロボロ崩れていってるんじゃないかという不安はあります。けれどもそれに対して自分自身でできることはないでしょう。だったらそういう心配は先生に任せるしかないじゃないですか」
では、岡村さんはがんになったことをどう受け止めているのだろうか。
「急いで走りすぎてきたことに対する警鐘ではないかしら。私はがんになって1歩引くことを覚えました。1歩引くことで周りの人たちに迷惑をかけるかもしれない。以前だったらきっとそのことにカリカリしていたでしょう。でも病気をしてからは迷惑をかけても、それを受け入れないといけないと考えるようになり、周りの人たちに素直に感謝できるようになりました。今のほうがかえって気持ちにゆとりがありますね」
日本と比較すればカンボジアは貧しい。学校に通えない子供も大勢いる。カンボジアでは当然のように子供たちも働いている。でも、貧しさ=不幸ではない。与えられた環境のなかで精一杯生き、存在感を持って生活しているカンボジアの子供たちを見ていると、自分たちのほうが教えられることも多いし、励まされることもあると岡村さんは語る。
「私、まだオーロラを見たことがないんです。だから絶対、見に行こうと思っているんです」
病気=不幸ではない。岡村さんを見ていて、そう思った。
岡村さんたちがカンボジアに贈った学校はすでに80校以上になる。
カンボジアに学校を贈る会/NPO法人ASAC
〒277-0025千葉県柏市千代田3-12-8-105
TEL/FAX 04-7167-6360
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