食事療法と瞑想で得た「自分のやるべきこと」 がん体験が手弁当で途上国のために奔走する人生を選んだ・北谷勝秀さん
これでは餓死してしまう
ところがその厳格な食箋に沿った食事を始めると、北谷さんの体重が急激に減っていった。手術前は85~6キロあった体重が手術後には20キロくらい減っていたが、それがさらに落ちていったのだ。それとともに体力も低下し、熱が上がり吹き出物やくしゃみが出るなど最悪の体調になっていった。
「これでは餓死してしまう」
そんな不安を抱いた北谷さんは、スナイダーさんに電話で問い合わせた。
「熱や吹き出物などが出るのは体にたまった毒素を排出する排毒症状だから心配いらない。エネルギーがなくなるのは困るだろうから、玄米に餅米を1割くらい入れるといい。それと中華街にいって生きた鯉を買ってきて、こいこくのようにして食べなさいとスナイダーに指示されました。いわれたとおりにするとやっと元気が出てきました。そしてマクロビオティックを始めて60日くらいすると、体重とエネルギーの低下が底を打つのが自分で分かりました。排毒症状も治まってきて、これでおれは大丈夫だという気になりました」
この間、北谷さんはマクロビオティックの指導に従った調理法を学ぶため、昭子さんと一緒に専用の料理教室にも参加した。また久司さんに直接会ってアドバイスを受ける機会も得た。
一方、手術後は3カ月に1回、病院で検診も受けていた。北谷さんがマクロビオティックの食事をしていると話したら、医師たちは「そんなことをしていたら栄養失調になる」と警告した。だが手術から3カ月たっても栄養失調にはならないし、再発もしない。白血球数も少しずつ増えてきていた。半年後には再発どころか逆に元気になっている北谷さんを見て、医師たちも「まあ、そのまま続けていいのでは」と認めるようになったという。
術後3年で出た“完治宣言”

食事療法だけではない。北谷さんはイメージ療法(瞑想)やヨガも試してみた。退院直後、まだ傷口が痛かった頃、瞑想をするとずいぶん楽になったという。ヨガはニューヨークの道場に通って修得した。退院から3カ月後に仕事に復帰したときも、夜ヨガをすると1日の疲れが取れ、翌日はすっかり元気になったという。
「私は幸運でした。妻や子供たちがサポートしてくれたし、国連の同僚や妻の知人たちも応援してくれました。瞑想や��ガは妻の知人が紹介してくれたり勧めてくれたりしたのがきっかけで始めたことです。ニューヨークの道場に通って禅もしました」
こうして1年が経過し、それまでの厳格な食箋に比べるとやや緩和されたが、マクロビオティックはそのまま続けた。医師の検診は半年に1回になった。そして手術から3年後、S医師や臨床腫瘍医は、「再発や転移が自然にくい止められたようだ。あなたはもう病院にこなくていい」と完治宣言ともいえる診断を下した。
北谷さんはその診断書を国連の医務局に提出し、国連代表として途上国に赴任したいと申し出た。がんのためスリランカへの赴任がご破算になったのが悔しかったからだ。このとき北谷さんは赴任先として、米が収穫でき、社交的にそれほど忙しくない地域を希望した。つまりマクロビオティックと瞑想を続けられる国ということだ。
86年、国連代表として赴任したミャンマーで、北谷さんは小乗仏教の瞑想に出合った。敬虔な仏教国のミャンマーでは短期間の出家ができ、終わったら還俗することも認められている。90年までの在任中に北谷さんは計6回、出家して瞑想を体験した。
「瞑想を通じて私は、自分が生かされていることを強く感じました。ある高僧にも、『あなたにはまだやるべきことがあるので守護神が生かしているのです』といわれました。それは国連の仕事のことだと思い、一所懸命仕事に打ち込みました。そして今度アメリカに戻ったらリタイアして、経験を生かして末期がんの人のためにホスピスのような施設をつくろうと考えたのです」
自分のためではなく

93年、30年以上勤めてきた国連を引退
しかし定年退職するつもりで90年にアメリカに戻ると、日本政府などから国連人口基金(UNFPA)の事務局次長就任の要請がきた。UNFPAは途上国の人口政策支援や女性の地位向上などが主な任務。それまで勤務していた国連開発計画では途上国の開発や技術移転などを主に扱っていたから、同じ国連の仕事でも中身や分野は大きく異なる。そしてここでの経験が、後にNPO法人2050を設立することにつながっていくのである。
「93年に正式に国連を退職してからは、ホスピス開設の準備をしていました。そのための家も買ってあったんです。ところが当時80代半ばの義母が、『そろそろ日本に帰ってきて親孝行をしてくれ』というんです。それで日本に帰ることにしたのですが、さて日本でなにをするかということになったとき、UNFPAで直面した途上国の貧困問題などが思い浮かびました。これからは日本もこうした問題にもっと積極的に取り組むべきだろうと考え、NPOを立ち上げたのです」
NPO法人2050は約2000人いる会員の会費と寄付で運営されている。北谷さん夫婦はほとんど手弁当のボランティアだ。
「国連にいたときも、金のためではなく世界のために働いているという自負はありました。しかしよく考えてみると、組織の中でいかに力を発揮するか、ポジションを上げていくかということにとらわれ、結局は自分のために必死になっていたんです。今は本当に世の中のために働いているという実感があります。ミャンマーの高僧がいっていた、私のやるべきことというのはまさにこれだったんですね」
国際的な活動をする上では当然、国連時代に培ってきた人脈や知識、ノウハウなどが役立っている。
「いろいろな偶然が積み重なって今の仕事にたどり着いたという気がします。UNFPAで働かなかったら人口問題などに関心が向くこともなかったでしょうし、ミャンマーから帰任したときは引退するつもりだったのですから、UNFPAで働くようになったこと自体、偶然のようなものでした。マクロビオティックのことを知ったのも偶然、知人に会ったことがきっかけでした。もしがんにならなければ、今ここでこういうことはしていなかったでしょうし、ひどい食生活を続けて他の病気になって死んでいたかもしれません。そういう意味でいえば、がんをしたことが人生の転機になりました。がん体験は私にとってプラスだったと思っています。今では、偶然の連続が、実は運命に導かれて起こった必然だったのかもしれないと感じています。」
どうして北谷さんのがんが再発も転移もしなかったのか、その理由は分からない。北谷さん自身はマクロビオティックと瞑想のおかげと信じているが、科学的な根拠には乏しい。ただ1つはっきりいえることは、もう打つ手がないと医師にいわれたときも北谷さんが諦めず、なんとかがんを克服しようと懸命な努力を続けてきたということだ。その結果として北谷さんは自分で運命を切り開き、本当に自分らしい生き方を見つけ出したのである。
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