何かに夢中になる。それが余命を延ばすと信じて 乳がん手術直後に世界第8位の高峰マナスルに挑んだ登山家・大久保由美子さん

取材・文:崎谷武彦
発行:2005年6月
更新:2013年8月

抗がん剤持参でヒマラヤへ

写真:ネパール・マナスル峰に登頂
2001年、乳がん手術直後、
8163メートルのネパール・マナスル峰に登頂

写真:ベースキャンプで隊員たちと
道中のベースキャンプで隊員たちと

写真:道中の雪原で

常に危険と隣り合わせの厳しい自然も、その風景はまるで天国のような美しさだと大久保さんは話す

この富士山トレーニングで自信を取り戻し、7月にはマナスル遠征隊への参加を正式に申し込んだ。

この頃のことを大久保さんはこんなふうに振り返っている。

「初期の乳がんよりヒマラヤ登山のほうが、明らかにリスクは高いです。正直いって秋のマナスルに登頂できる勝算はほとんどないと思っていました。それでも私は、行くべきだと確信していました。それはもしかすると、なんとかして病気以外のことに関心を向けようとしていたのかもしれません。病気のことばかり考えていたら気が滅入って、治るものも治らなくなってしまう。だから本能的な防衛反応が働いて山に関心を向けさせることで、がんと折り合いをつけたのでしょう」

こうして大久保さんはマナスル遠征隊に参加した。このとき大久保さんは、通常は山に持っていかないものを2つ持参した。1つは衛星電話である。もし他の隊員についていけなくなるようなことがあったら、衛星電話でヘリコプターを呼び下山する覚悟を決めていたのだ。実際、ブリザードの中で大久保さんは何度も立ち往生した。だが何とか気力と体力を振り絞り、ついに登頂に成功した。

「ヒマラヤはいつだって本当に素晴らしいところですが、このときはいつも以上に景色が新鮮に見え、目にしみましたね」

ただ残念なことにこのときは2次隊の隊員1人が下山途中に亡くなっている。皮肉なことに大久保さんの衛星電話は、その悲報を下界に知らせるために使われることになった。

もう1つの異例の持ちものは、抗がん剤だ。3年間服用する経口の抗がん剤を退院時に処方されていたのである。この抗がん剤による副作用はほとんどなかったため、大久保さんはヒマラヤ登山中も服用を続けていた。

もっとも大久保さんはそれ���で処方された量の半分も飲んでいなかった。

「がんだと知ってから、かなりいろいろ調べました。そうすると私の場合、35歳未満ということとホルモンレセプターが陰性だったという理由だけで、念のために抗がん剤が処方されていると分かりました。もともと薬が大嫌いなこともあり、飲んだり飲まなかったりしていて、検診のたびに先生から怒られていたんです。ここが患者の弱いところで、面と向かって『飲みたくありません』なんていえないじゃないですか。だから処方された薬がどんどん溜まるばかりでした。抗がん剤を飲み続けている間は病気のことも意識し続けることになるので、ヒマラヤから帰ってきてからはほとんど飲まなくなり、結局半年でやめてしまいました」

とはいえ、医療から離れたわけではない。骨シンチ、腫瘍マーカーなどの検査は継続して受けている。ただし、勝手に治療をやめてしまったうしろめたさから、診てもらう病院は変えた。

「本来なら、転院したい理由をきちんと伝えて、医療情報をもらってからやめるべきですが、当時はその勇気がなく黙ってやめてしまいました」

子供を産むことが目標に

写真:心理学を学ぶために大学院に入学

マナスル登山の後、心理学を学ぶために大学院に入学

マナスル登山を終えたあとは、早稲田大学大学院の人間科学研究科に社会人入学した。ヒマラヤ登山を何回か経験する中で、大久保さんは、「フロー」と呼ばれる感覚を味わったことがある。「フロー」とは、何かに集中しているときに、その活動が非常に楽しくて「喜びの体験」といえるような感覚にまでなることをいう。心理学の範疇に入るその理論をもっと深く知りたくなったのが動機だった。

実は大久保さんは退院する前に、抗がん剤を服用する3年間は妊娠しないように医師から注意された。そのことにとてもショックを感じた大久保さんは、初めて自分が子供をほしがっていることに気がついた。だから子供を産めるまでの時期を有意義に過ごしたいという思いもそこにはあった。抗がん剤は半年でやめてしまったが、大久保さんは3年待ってから今年の2月、長男の颯佑ちゃんを無事出産した。

「今はさすがにリスクのある登山はまずいですね。自分だけでなく子供の命も守らなくてはいけませんものね」

そういって大久保さんは幸せそのものという笑みを浮かべた。もちろんこの間、つらい時期がなかったわけではない。がんを宣告されたあと、本を読んだりインターネットで調べた大久保さんは、医師によっていうことが違い、「何を信じたらいいか分からず迷宮に入り込んだ」という。

そんなとき支えになったのは、やはりマナスル遠征に参加するという目標を持っていたことだった。

「病気を治すことや生きること自体を目標にしたら、かえって病気のことしか考えられなくなり、快復は難しくなると思います。だから私は遠征に行くことを目標にし、その目標を達成するために病気を克服しようと考えたんです。それが励みになってリハビリも頑張ることができたんだと思います。

がんのタイプや病状によっても違うかもしれませんが、病気を治すことを第1目標とはせずに、自分が夢中になれるものを見つけるようにしたほうがいいのではないでしょうか。自分が好きなこと、やりたいことをやるために病気を克服しようという状況をつくり出す。気持ちをそんな風に転換するだけでも、余命が伸びると私は信じています」

だから大久保さんは、入院中は遠征に参加すること、マナスル登山のあとは大学院で勉強すること、そして2年間の大学院生活を終えたあとは子供を産むことというように、常に目標を設定してきたのだろう。

一瞬、一瞬を大切にする

写真:長男の颯佑ちゃんと

もちろん鷹揚な性格の義清さんも大久保さんを支えてくれた。そして同じ乳がんになった母親も、大久保さんの生き方、考え方にはずいぶん影響を与えたという。

「母は一時西洋医学から代替医療に切り替えました。しかし、3年前に背骨への転移が見つかり、痛みが激しかったためもう1度西洋医学に戻って放射線治療を受け、今は大分落ち着いています。母は、病気をしてから性格が変わったように思います。昔は今ほど行動的ではなかったと記憶していますが、生死を意識せざるを得ないような病気をして残り時間を考えるようになったせいか、病気のあとは行きたいところがあれば1人でも行くし、やりたいことはどんどんやるようになったんです。そういうところは私にも影響しているというか、自分が病気をしてみて母の気持ちがよく分かるようになりました。

残り時間を意識することで一瞬一瞬を大切にするようになり、日常が豊かになりましたね。もちろんそれは常に死を意識することで生も意識する登山の体験とも結びついているものだと思います。

実はこういうことを明確に意識できるようになったのも、病気がきっかけでした。以前はそれほど深く考えることはなかったのですが、病気をしてからは改めて自分と向き合ったからか、とても内省的になりました。今、この瞬間はもう2度とないぞという客観的な目がちょくちょく現れるんですよね」

1992年、ふと手にした新田次郎の山岳小説『銀嶺の人』を読んだことがきっかけになり、大久保さんは山に目覚めた。そこから大久保さんの人生は大きく転換していった。そして2001年、がんを経験したことで再び大久保さんには転機が訪れた。今、大久保さんはその転機を悪いことではなかったと考えている。

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