希望を捨てず、夢を諦めない 小さな命が教えてくれた生きることの素晴らしさ・米山美紗子さん
下痢と化膿と離乳食
退院後、しばらくの間は母親が米山さんの家に寝泊まりして家事や子供の面倒を見てくれた。おかげで米山さんはゆっくり養生することができた。だが、母親が実家に帰り、しばらくすると、米山さんは徐々に気分が落ち込んでいった。原因の1つは、下痢だ。車でどこかに出かけるときでも、動き始めるとすぐに「ちょっとコンビニに寄って」といわなくてはならないほど、頻繁に下痢をするのである。米山さんは退院後の診察をF病院ではなく、I病院で受けていた。もちろん下痢のことも相談した。しかしI医師は「胃がんの手術をしたのだから仕方ない」というだけだった。
「下痢は今も治っていません。だから私は急行電車に乗ることができないんです」
手術の傷口が何度も繰り返し化膿したことも米山さんの気持ちを重くさせた。しかもその都度、I医師に診てもらうと、傷口を縫合した糸が出てきたのである。これには「思い当たる節がある」と米山さんはいう。
「F病院で執刀したのはとても若い先生でした。主治医の先生が、人を育てるのも自分たちの役割なので、今回は若手にやらせると説明していました。でも私の傷口を見たI先生は『糸の始末がよくありません。今度私からF病院にいっておきましょう』とおっしゃっていました」
下痢がひどかったり傷口が化膿したりしたことで、米山さんは「もしかしたらがんがまだ残っているのでは」という不安な気持ちにもなった。
この頃、米山さんは食事にとても気をつけていた。栄養のバランスに注意し、1日30品目以上を摂るようにすること。消化の悪いものは小さく刻んだりすりつぶしたりすることも忘れなかった。
「子供が小さかった頃につくっていた離乳食のようなものを今度は自分のためにつくり、これはカロチン、これは鉄分というように考えながら食べていました。それなのに下痢は治らないし傷口は化膿するしで、自分はいつまでこんなことをしなくてはいけないんだろうと思い始めたんです。そのうち食事をつくるのも食べるのも嫌になって、体重が減っていき、一時は手術前より12~3キロも痩せました。そうしたら私がダイエットしているという噂が流れ、それが悲しくてますます鬱々とした気分になってしまったんです」
「この子を産ませて」

あるとき、米山さんはそのことをK医師に訴えた。するとK医師は「趣味でもなんでもいいから自分のやりたいことをして、目標を持ってみたら」とアドバイスした。
けれどもこの頃は何をやっても楽しくなかった。「もう私はがんだから」「他の人とは違う病人だから」という想いがどうしても出てきてしまうからだった。
そうして家にこもっていることの多かった94年の夏のある日、仲のいい友人が赤ちゃんを連れてやってきた。もともと子供が好きな米山さんは早速その赤ちゃんを抱かせてもらった。そうすると赤ちゃんはぐずりもせず、米山さんの腕の仲で安心しきったように静かな寝息をたてた。その瞬間、米山さんは何かを感じた。
「そのときは可愛いなー、いいなーと思っただけでした。でももしかしたら私は赤ちゃんを抱いて命の素晴らしさにふれ、もう一度生き直してみようと思ったのかもしれません」
米山さんはもともと子供は3人ほしいと考えていた。ところが次女が生まれたあとはなかなか子供ができず、そのうちなんとなく諦めたような形になっていた。しかし友人の赤ちゃんを抱っこしたことで、久しぶりにその夢を思い出していた。
「この頃から体重も戻り、気晴らしにパーマをかけたり、外にも出るようになってきましたね」
翌96年、手術からちょうど1年が経った頃に米山さんは、自分が妊娠していることに気がついた。
「体のことを心配して、産むのはやめたほうがいいという人もいました。私自身、そのときすでに37歳で以前と比べれば体力も落ちていましたから、本当にこんな体で生んで育てていけるだろうかと不安な気持ちがありました。でも3カ月のときの超音波検診で、赤ちゃんの小さな心臓が動いているのを見たとき、私は『先生、どうぞこの子を産ませてください』と泣きながらお願いしていたんです」
夢を諦めないで


『黄色のお星さまになった猫』〈*文芸社刊〉1,260円(税込)
こうして96年11月、3女を出産。もう鬱々としている余裕もなく、米山さんは子育てに追われる忙しい日々を送ることになった。
3女が小学校に上がった2003年の12月、米山さんは『黄色のお星さまになった猫』(文芸社刊)という本を出版した。黄色が大好きで、いつか自分の毛も黄色になることを夢見ているミー助という猫が主人公の創作童話だ。米山さんは文章を書くのが好きで、以前から何か思いついたときなどに広告のチラシの裏に書いたりしていた。この作品も最初はチラシの裏に書かれたものだった。
「3番目の子供を産んだ2年後くらいから、チラシの裏に少しずつ書きためていました。もともと私は黄色が好きで、食器とか台所に黄色いものを集めていたんです。そうしたらたまたま風水に詳しいお友達が、西の方角に黄色いものを置いておくと金運がよくなると教えてくれたんです。私はそれまで風水のふの字も知らなかったんですが、そこから黄色が好きな猫のお話を思いついたんです」
米山さんはそれまでも自分の書いた作品を出版社に送ったことがあった。ただそれまではいつもボツになっていた。今回の作品については書いたあと、しばらくそのままに放っておいた。ところがあるとき部屋を片づけていると、そのチラシが出てきた。改めて読んでみると今度のストーリーは自分でも好きだったし、いいと感じられた。そこで試しにイラストを描いている友人に見せると、記念に本の形にすることを奨められたのだった。

「高校生のころから詩を書いたりして、いつか1冊の本にしたいという夢を持っていました。そのことを思い出し、改めてどんなときも希望を捨てず、夢を諦めないでという気持ちをこめて大学ノートに書き直してまとめ、試しに出版社に持っていったんです。どうせ門前払いだろうと思っていたのですが、たまたま対応してくださったのが20代の女性編集者で、『これ、いいかも』と言ってくれたんです。私は自費出版で100部くらいつくれればいいと思っていたのですが、こんな形で長年の夢が叶うなんて本当にうれしいですね」
米山さんは2年前から書店で働いている。その職場でもこの本のフェアを開いてくれた。埼玉版の新聞で紹介されたこともある。
がん体験のあと、3人目の子供を産むこと、本を出すことという2つの夢を実現した米山さん。それはもしかしたらがん体験があったからこそ実現したのかもしれない。
「がんをしてから自立心が強くなったような気がします。それまでは夫におんぶに抱っこという感じでいましたが、病気になるのは私だけとは限らないんですよね。夫だっていつどうなるか分かりません。だから何かあったときは、私も子供を抱えて生きていけるようにならないといけないと思うようになりました」

「それと発病したときに気づいたのは、自分が家族に支えられているということです。入院中1カ月半、子供たちと離れて本当にそう痛感しました。だから以前はボーッと生きていましたが、今は前向きな気持ちで毎日を生きています。がんだってまたなる可能性があるわけですから、常に心の準備をしておいたほうがいいでしょ。3番目の子供を産んだのも本を書いたのも、そういう気持ちの変化と関係あったと思いますね」
『黄色のお星さまになった猫』で主人公のミー助は最後に「黄色になりたい」という夢を叶える。ただしそれは決して単純なハッピーエンドではない。むしろちょっと切ない終わり方といったほうがいいだろう。そこに「少し強くなった」米山さんの一面が表れているのかもしれない。
いま、米山さんは次作の執筆にかかっている。今度は俊夫さんをモチーフにした作品になるそうだ。
「主人公は、熊さんです」
そう言って米山さんは、少し照れくさそうな笑顔を浮かべた。
*絵本についてのお問い合わせは文芸社 販売部 03-5369-2299
同じカテゴリーの最新記事
- 病は決して闘うものではなく向き合うもの 急性骨髄性白血病を経験さらに乳がんに(後編)
- 子どもの成長を見守りながら毎日を大事に生きる 30代後半でROS1遺伝子変異の肺がん
- つらさの終わりは必ず来ると伝えたい 直腸がんの転移・再発・ストーマ・尿漏れの6年
- 家族との時間を大切に今このときを生きている 脳腫瘍の中でも悪性度の高い神経膠腫に
- 子どもの誕生が治療中の励みに 潰瘍性大腸炎の定期検査で大腸がん見つかる
- 自分の病気を確定してくれた臨床検査技師を目指す 神経芽腫の晩期合併症と今も闘いながら
- 自分の体験をユーチューバーとして発信 末梢性T細胞リンパ腫に罹患して
- 死への意識は人生を豊かにしてくれた メイクトレーナーとして独立し波に乗ってきたとき乳がん
- 今を楽しんでストレスを減らすことが大事 難治性の多発性骨髄腫と向き合って