乳がん体験は生と死を深く考えるきっかけになった 生きていることの素晴らしさを私は音楽で伝えたい・日比野和子さん
私は今、生きている

その成果もあってか、手術から1カ月後にはもう合唱団の指導で指揮をとることができた。ただヴァイオリンはあまり弾けなかった。ヴァイオリンは左手で持ち、あごのしたに挟む。しかし手術したあとはヴァイオリンを持つと、背中の左側に筋肉がつれて痛むようになったのだ。
「それでも若い人たちに励まされ、少しずつ弾けるようになっていきました」
そう語る日比野さんは、がんをしたことで生や死について深く考えるようになったという。
「全摘したって再発の不安はあります。だから1年たつたびに、『ああ、私は今、生きている』って思うんです。そして、せっかくこうして命を与えられたのだから、生きていることを大切にしよう。明るく生きていこうと思います」
そうして1年が過ぎ、2年が過ぎ、気がつくと手術から5年の歳月が流れていた。2002年のことだ。
「5年が過ぎたからといって再発や転移の不安がすっかり消えるわけではありませんが、一応ひと区切りでしょう。それで改めて私にできることは何だろうと考えたんです。そして私に与えられた音楽という財産を生かしてできることをしていくことにしたんです」
その頃から日比野さんが始めた活動の1つが、高齢者を対象にした音楽療法だ。四街道市にある老人保健施設を訪問し、入所者を対象に音楽療法を行っているのである。
「音楽療法はピアニストとスターナインというグループと一緒に活動しています。まず元気いっぱいに『こんにちはー』といって、体操をしてから歌を唄ったりトーンチャイムで演奏したり。トーンチャイムは入所者の皆さんにも持っていただき、演奏に参加していただきます。私はヴァイオリンの演奏もします。歌を唄ったりヴァイオリンを聞いたりしているとき涙を流す方もいらっしゃいますよ。施設の方は『音楽療法をするようになってから入所者がずいぶん違ってきた』とおっしゃっています。でも私たちも皆さんから気をいただいているんです。皆さんにお会いするたびに私はエネルギーをもらっている。だからこんなに元気になれたんだと思います」
そう言って日比野さんは明るく笑う。
自宅で開いたチャリティコンサート

人形作家である友人が作った日比野さんの人形
音楽療法を学んで初めてトーンチャイムを知った日比野さんは、自分もこの楽器を購入した。音楽療法のためにつくられたトーンチャイムは、ハンドベルと同じように手に持って振ると、透き通った美しい音色を響かせる。1人が1~2、3本ずつ持ち楽譜にしたがって順番に鳴らすと音楽を演奏できるという仕組みだ。毎月訪れている老人保健施設に日比野さんはピアノも1台寄付した。
『毎回、日比野先生の快活さとパワーを感じ、入所者の穏やかな笑顔を見ると、音楽っていいなと思います。生の音には響きがありとてもいいものです。音楽で昔を思い出したりリズムに合わせて体を動かしたりすることで、リハビリになったりリラックスしたり、さまざまな効果を期待できます。人間には音楽が不可欠。どこかのコマーシャルではありませんが、ノーミュージック、ノーライフ。入所者が涙を流すのがよく分かります』
これは老人保健施設の職員が日比野さんの音楽療法に対する感想を書いた文の一節だ。
「音楽療法をして本当によかったなと思います」日比野さんがしみじみとした口調で言う。
一方では対がん協会などが開く講演会やイベント、コンサートなどにも参加している。昨年の暮れまで2年半にわたり、毎月5日間だけ自宅をギャラリーにして画家や陶芸家、人形作家などに発表の場を提供してきた。また自宅でのチャリティ・コンサートも行ってきた。
「それまでは乳がんをしたことを人にはあまり言いませんでした。自分に対する言い訳のような気がしましたし、同情されるのはいやですからね。でも言わなければ伝わらないことはあるし、自分の気持ちの問題だと割り切って、トリオ演奏でのチャリティ・コンサートのときは病気のことを話します。いつも30~40人くらいの方がいらっしゃいます。募金箱を置いておき、集まったお金はがん撲滅を願って放射線医学総合研究所などに寄付しました。このときはここまで音が出せるようになったんだなと思うと、感無量になりましたね。チャリティ・コンサートはこれからも何らかの形で続けていきたいと考えています」
やりたいことがどんどん増えている

日比野さんの友人が詠んだ
「日々野和子の世界」
合唱団の指導は従来通り続けている。2004年1月17日には「12人のチェリストと100人のうたとトーンチャイムの仲間たち」というコンサートを開いた。この日は阪神大震災から9年目に当たり、満員となった会場ではがん撲滅と震災遺児への募金も行われた。
日比野さんは若い頃、レコーディングやオーケストラでの仕事をした。しかしここ数年は自分がステージに立つことより、コンサートやイベントなどを企画する側に回ることが多い。病気をしたことで音楽に対する考え方が「ずいぶん変わった」と日比野さんは言う。
「小学生のときからヴァイオリンを始めて、高校の頃は富山から夜行列車に乗って東京までレッスンを受けにいっていたこともあります。そうして両親は私に音楽という財産を残してくれたんです。病気をしたときは、もうヴァイオリンは弾けないだろうと思いました。でも、また弾けるようになった。もちろんもう大きなステージに立てるわけではありませんが、私はやっぱり音楽をしているときが1番楽しいんです。だから自分がステージに立たなくても、音楽という財産を生かして人に喜びを提供できればいいなと思うようになったのです」
今年はアーティストを育てるためのプロジェクト(ASP企画)を新しく立ち上げた。音楽家に限らずいろいろなアーティストを支援していくためのプロジェクトである。
その活動の一環として今年の11月3日には、「トリオとトークと野の花と」と銘打ったコンサートを千葉で開く予定だ。このコンサートにはベルリンから招くトリオとともに大勢の仲間たちも参加することになっている。さらにその2日後にも別の場所で人形作家などとコラボレーションしたコンサートを行うことも計画している。
「いいコンサートをいろいろな場面でいろいろな人に提供していきたいですね。最近はパソコンも趣味です。多くの陶芸家や画家など音楽以外の人との交流も広がりましたし、やりたいことがどんどん増えてきているんです」
これからも音楽という財産を大事にし、日比野さんは活動の幅を広げていくだろう。
「がんを宣告されたときが1番つらかったですね。でももともとくよくよしない性格ですし、家族も動揺したところは見せなかったので、そのあとはわりと落ち着いていました。先生も励ましてくださいました。今は年に2回、検査を受けていますが、病気をしたあとも生活はとくに変えていません。週に3回、近くのプールにいって水中を歩いたあと、30分くらいアクアビクスをしています。今は健康そのものですよ」
乳がんの体験はつらかった。でもそのつらさや苦しさよりは、がんになっても明るく前向きに生きていることを人々に伝えたい。生きることの素晴らしさ、大切さを、音楽を通して伝えたい。音楽にふれることで人々を癒したい。日比野さんはそう思っている。そして今、音楽とともに生きてきた自分自身もまた音楽に癒されていることを感じている。
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