希望を持ち続けて憧れのパラリンピックへ 骨肉腫による右足切断を乗り越え、世界の舞台に挑む・佐藤真海さん

取材・文:崎谷武彦
発行:2005年1月
更新:2013年9月

幻肢痛の苦しみ

写真:入院して抗がん剤治療を受けていたころ

入院して抗がん剤治療を受けていたころ

佐藤さんの気持ちは揺れ動いた。入院してから2カ月が過ぎたころ、診察室でY医師に対し、「足を切るのは最後の手段にしたい」と言ったことがある。

「それでは遅いんだよ。手術をしなかったら長くてあと1年半しか生きられないよ」

長い沈黙のあと、佐藤さんが「先生のお子さんが私と同じ状況になったとき、やはり切断しますか」と聞くと、Y医師はいった。

「もちろん僕は切るよ。命のほうが大切だから」

これで佐藤さんの気持ちも少し落ち着くことができた。

手術は2002年の4月16日に行われた。前日にはチアリーディングの仲間たちが一羽一羽にメッセージを添えた千羽鶴を届けてくれた。

「最初のころはチアをやっている元気な友だちがくると、いいなあと思うこともあったし、あまり会いたくないなと思ったこともありました。でも会えばやはり楽しいし、元気になりました。看護師さんはみんなお姉さんのような感じで、変に優しくしたりせず、普通に接し、普通に話してくれました。私にはそれが支えになりました。患者同士でも励まし合うというよりは普通のことを話して、それがいい気分転換になりました。もともと何事もいいように考える性格ですが、入院してつらいときでも、悪いほうに考えないですむ環境があったのは本当にありがたかったですね」

手術が終わり病室に戻ると、家族が待っていた。

「もう足はないんだなあ」

麻酔がまだ完全には覚めきらないぼんやりとした頭で佐藤さんはふと、そんなことを考えた。

手術後はまた抗がん剤治療を受けた。薬が変わったせいもあったのか、術前の治療ほど副作用はひどくなかった。それよりも苦しかったのは幻肢痛だ。切断してなくなっている右足首が痛むのである。最初のうちは下のほうから電気を流されているような痛みが数分おきに走り、夜も眠れないほどだった。

そんななかで佐藤さんは義足ができるのを心待ちにしていた。義足ができれば本格的なリハビリも始められるからだ。そして6月半ば、待望の義足が届いた。義足をつけての歩行は思っていた以上に難しかったが、それでも佐藤さんは訓練を続けた。

スポーツで戻った笑顔

写真:佐藤さん

障害者スポーツに出会って感動し、「いつも輝いている自分でいたいという思いが、天に通じたと確信しました」撮影・Aki NAGAO

2002年10月、佐藤さんは退院の日を迎えることができた。入院前、「絶対、大学に戻ってくる」と誓ったとおり、退院後3日ほどで佐藤さんは約9カ月ぶりにキャンパスの土を踏んだ。晴れ晴れとした気分でまた学生生活が始まる、はずだった。だが、日を追うごとに佐藤さんの気持ちは沈んでいった。

「退院後、初めて大学に行くときはワクワクする気持ちと不安の両方がありました。そして実際に行ってみると複雑な気分になりました。みんなに取り残されたという感じもありましたし、こんな体で戻ってきたという思いもあって。そのころはまだ義足に慣れていなかったため歩き方も不格好だったし、杖も持っていたので、周りの視線が気になりました。だから友だちはごく普通に接してくれたのに、私は授業に出たらさっさと帰宅し、ほとんど外出もしませんでした」

そんな日々が2カ月ほど続き、佐藤さんは「落ちるところまで落ちた」という。そしてそんな佐藤さんを救ったのが、スポーツだった。

「退院もできたし大学にも戻れて嬉しいはずの自分が殻の中に閉じこもって落ち込んでいるのが、すごくいやだったんです。それで殻から抜け出すためには、やりたいことを探そうと考えました。それがスポーツだったのです」

インターネットで『障害者スポーツ』を検索したところ、東京都障害者スポーツセンターという施設があることを知った佐藤さんは、すぐに見学のため行ってみることにした。

センターでは、さまざまな障害者がさまざまなスポーツを楽しんでいた。体育館やグラウンドを見たあとプールにいくと、そこでも水しぶきをあげながら楽しそうに泳いでいる人たちがいた。その瞬間、佐藤さんは病気をする前の“スポーツ大好き少女”に戻っていた。

「足を切断したばかりなのですが、泳げるでしょうか」

たまたまその場に居合わせた職員に声をかけると、

「大丈夫。ぜひ泳いでください」

という明るい答えが返ってきた。そのとき佐藤さんは久しぶりに晴れ晴れとした自然な笑顔を浮かべていた。

標準記録をクリア

写真:佐藤さん

「普段使う義足と陸上スポーツ用の義足は、まったく違うものです。最初は怖くて、ただ歩くだけでしたね」 撮影・Aki NAGAO

写真:佐藤さん

「ジャンプのあと着地したとき衝撃がどうすれば軽くなるのか、練習を重ねて体で覚えてきました」 撮影・Aki NAGAO

年が明け、2003年から佐藤さんのプール通いが始まった。初めて人前で義足をはずすときには抵抗があった。義足をはずし、片足でプールサイドを飛びながら歩くときには勇気も必要だった。けれどもプールに入り泳げることを確認したとき、もうそんな不安や迷いはすっかり消し飛んでいた。やがて生来のアスリート魂が呼び覚まされる。「どうせ泳ぐなら何か目標を持ちたい」と思うようになったのだ。おあつらえ向きに6月に水泳の大会が行われることになっていた。佐藤さんはなんのためらいもなく参加を申し込んでいた。

それからしばらくした3月のある日、佐藤さんはスポーツセンターの人から紹介されたスポーツ用義足の第一人者である義肢装具士、臼井二美男さんに会うため、スポーツセンターのグラウンドに行き、スポーツ義足で走っているランナーたちを初めて見ることになる。

「カッコいい」

そう思ってランナーを見ている佐藤さんに、「せっかくだから走ってみたら」と臼井さんが声をかけてきた。直線で50メートルほど。もちろん全力疾走にはほど遠いスピードだ。それでも佐藤さんは走ることの爽快感を再び味わうことができ、満足感で一杯だった。やがて6月、佐藤さんは二つの障害者水泳大会に出場すると、7月に行われる関東身体障害者陸上競技大会にもエントリーした。それを決めた少しあと、タイミングよく臼井さんが佐藤さん用のスポーツ義足を用意してくれた。ここから100メートル走と走り幅跳びの練習が始まる。陸上競技についてはセンターの職員である藤田勝敏さんがいろいろアドバイスしてくれた。再び前向きに歩き始めた佐藤さんを、さまざまな人が支えていたのである。2003年の8月には水泳の「ジャパンパラリンピック」、9月には陸上の「ジャパンパラリンピック」にも参加した。そのなかでいつしか佐藤さんは、アテネ・パラリンピックを意識するようになっていた。

2004年3月、アテネ・パラリンピックに向けた陸上の最終選考会が行われた。その数カ月前から、藤田さんがコーチ役として一緒に練習してくれるようになっていた。エントリー種目は100メートル走と走り幅跳び。アテネへのキップを手に入れるためには、いずれの種目も国際パラリンピック協会が定めた標準記録をクリアすることが条件になる。走り幅跳びの標準記録は3メートル55センチ。それまでの佐藤さんの最高記録は3メートル10センチ台だった。

3月14日、熊本市の県民総合運動公園陸上競技場。佐藤さんは1本目のジャンプで3メートル66センチを記録した。そして数日後、佐藤さんのもとに女子走り幅跳びの日本代表選手に内定するとの連絡が届いた。

ラッキーガール

写真:卒業式の佐藤さん
2004年3月、笑顔の卒業式

それから1週間後、佐藤さんは早稲田大学商学部を卒業した。9カ月間の入院というハンデを乗り越え、4年間での卒業を実現したうえアテネの代表選手にも選ばれた佐藤さんは、「優れた成績を修め、模範となるべき学生」に贈られる『小野梓記念賞』を受賞した。

その間には障害を持つ学生にも公平に門戸を開放しているサントリーへの就職も決めていた。サントリーの入社式では、新入社員を代表しての「決意表明」を行った。仕事にも日々の生活にも常に目標を持って取り組みたいという趣旨の挨拶を、佐藤さんは穏やかな笑みを浮かべながら披露した。2004年9月には闘病体験から卒業・就職、アテネ出場決定までの経緯を綴った本も出版した。本のタイトルは『ラッキーガール』(集英社刊)だ。

写真:卒業式の佐藤さん

入社式では新入社員を代表して挨拶をした。右は佐治信忠社長

「失ったものもありますから、病気をしたことがよかったとはいえません。でも1日1日を大切に生きるようになったとか、自分が大勢の人に支えられていることを知ったとか、病気をしたことがプラスになった面もたくさんあります。先生はうまく治療できたので再発はまずないとおっしゃっています。いろいろな方と出会い、スポーツをまたできるようになったし、4年で卒業でき、就職もでき、アテネにもいけたし、病気をしたあとは本当にラッキーなことが続きました。何よりも、つらいときを乗り越えたらいいことが待っているという希望を信じられるようになったことが大きいですね」

今、佐藤さんは仕事をしながら、終業後や休日を利用して走り幅跳びの練習をしている。その目が見据えているのは、2年後の世界選手権、そして4年後の北京パラリンピックだ。

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