会社人間からシルクロードの旅人へ がんに背中を押されて始めた夢を追う新しい人生・大竹錠二さん

取材・文:崎谷武彦
発行:2004年12月
更新:2019年7月

今も大切にするビーカーの戒め

写真:ビーカー

大竹さんは毎日ビーカーを見て、暴飲暴食をしないよう自分自身に言いきかせている

だが、半分切除した胃と十二指腸を接合した部分がなかなか開通しなかった。そこが開通するまでは口からものを食べることも水を飲むこともできない。

「痛みはありませんでしたが、胆汁だか胃液だかが溜まるとだんだん腹が張ってきて、あるとき口からダーッと吐く。そういうことが何度かありました。その間はずっと点滴だけで、食べられないし飲めないしで体重はどんどん減っていき、さすがにイライラしましたね。自分ではあまり覚えていないのですが、そのころはよくあたられたと妻がいっていました。本当に手術はうまくいったのかと疑問を抱くこともありましたよ。でも先生は『時間はかかるが必ずよくなります』というので、耐えるしかありません。胃に溜まる胆汁を出すために管を鼻から入れているのですが、夜寝ているときに無意識にそれを抜いてしまい、看護師さんから怒られたことも何度かありました。このころが一番つらかったですね」

そんなある日、大竹さんは便意を催していることに気が付いた。そして程なく肛門からガスが出た。ようやく胃から腸への道が貫通したのである。

「これで生きられると思い、ホッとしましたね」

この日から食事が食べられるようになった。といっても最初はほとんど水のような全粥。それもわずか100㏄くらいだ。

「大竹さんが食べられるのはこれだけですからね」

そう言って看護師がビーカーの100のところの目盛りを示した。大竹さんはこのときのビーカーを譲ってもらい、今も大切に持っている。

「これを見ると、暴飲暴食をしてはいけないぞという戒めになるのです」

“胃がん退職”で新しい人生へ

月に1度医師の検診を受けながら1週間程度の旅を、25回繰り返した。博多からタクラマカン沙漠を経て地中海、さらにマラッカ海峡からインドのゴア、喜望峰を回り、ポルトガルに至る、28カ国の沙漠と海のシルクロードの旅をした

写真:蘭州の黄河
蘭州の黄河
写真:ウズベキスタン サマルカンド
ウズベキスタン サマルカンド
写真:ウズベキスタン
ウズベキ��タン
写真:カザフスタン シルクロードバザール
カザフスタン シルクロードバザール

結局、大竹さんの入院生活は、1月27日から3月13日までの46日間におよんだ。そして退院の翌日からは出社した。だが、入院前73キロあった体重は63キロにまで落ちていた。そんな体に衣更えの前の冬服はずしりと重く、電車に乗ると体がよろけ、地下鉄の階段がやけに長く感じられた。

そのとき、大竹さんのなかで何かが弾けた。

会社をやめよう。やめて好きなことをしよう―――。

そんな思いが沸々と湧いてきたのである。

「1度しかない人生なのだから、昔から抱いていた夢を実現したい。家族やみんなの支えで助かったのだから、新しい人生をもう一度生き直してみたい。そう思ったんです。定年を待つのではなく、自分で積極的に前向きの人生を開いていこうとそのとき決心したのです」

といっても、いきなり退職したわけではない。その当時まだ大学生だった次男が卒業し、就職が決まったらやめることにした。もちろん悦子さんにはその気持ちをうち明けた。

「あなたの好きなようにしていいわよ」

悦子さんは一言そういっただけだった。

最終的に大竹さんは1995年の12月末に59歳で会社をやめた。優遇制度が適用されて割り増しになった退職金は、全部個人年金型の保険にした。当時は金利が高かったので、年金が出るまではそれで生活をまかなうことができた。

「会社の人たちには、冗談で“胃がん退職”ですといいました」

そういって大竹さんは破顔一笑する。

時間に束縛されない“自由人”となった大竹さんは、まず東京農業大学の成人学校に通って農業を学び、早稲田大学のオープンカレッジではシルクロードの文化や中国古代美術、日中交流史などについて勉強した。オープンカレッジには実に8年も通った。その間、詩吟や料理も習った。農業を学んだのは栃木県にある実家の畑で農業をしたかったからだ。オープンカレッジでの勉強は、いうまでもなくシルクロードへの旅の準備をするためだった。

毎月受け続ける血液検査

写真:『砂漠と海のシルクロード展』

旅先で撮影した写真を絵葉書にし、『砂漠と海のシルクロード展』を開いた

写真:「大きくなったら一緒に旅をしたい」

「大きくなったら一緒に旅をしたい」と、大竹さんは孫との旅に夢をふくらませている

96年の夏には念願かなって中国・西安の地に旅立った。それからというもの、ときには悦子さんも一緒に各国を旅して回り、2000年10月には自分で撮った写真と紀行文をまとめた『シルクロードを西へ』を、2003年8月には『海のシルクロードを西南へ』を自費出版した。2004年1月には、旅先で撮った写真約2万カットから270点を選んで絵はがきにした作品の展示会も銀座の画廊で行った。

「本は孫への遺言状のつもりでつくりました。おじいちゃんはこういう道を歩いたんだ。お前たちも世界を見ろという伝言ですね。でも3人目の孫も生まれたので、もう1冊つくらないといけないんですよ」

今、大竹さんは週に2回、栃木の実家に行って畑仕事をしている。世田谷の老人ホームを訪問し、詩吟を披露するボランティアもしている。詩吟の腕前は今年の6月に師範になったほどで、「漠洲」という雅号も持っている。血糖値がやや高かったことがあったので、ジムにも通いたっぷり約1時間汗を流す。今はY医師に依頼され治験にも協力している。

「会社をやめてからもなんだか忙しいですね。でも今は疲れを知りませんね」

食事は肉より魚中心にし、自分でつくったものを中心に緑黄色野菜をしっかり食べるようにしている。酒は以前ほどではないが飲んでいる。代替療法の類は「信用できない」ので一切していない。

「10年たっても再発の不安は常にあります。だから今でも月に1回、Y先生のところにいって血液検査をしてもらっていますし、胃カメラは毎年2回、CTも1回受けています。病院というのは、病気をしてからではなく、病気をする前に予防のために通うべきところなのだということを、自分の経験で学びましたからね」

その他にも経験から学んだことはあるという。信頼できる医師に出会うこと、日頃から活力を養うこと、ストレスと食事に注意すること、いい加減な風説に悩まされないこと、などだ。

「何年かして孫がもう少し大きくなったらケニアに連れていきたい。20歳になったときは一緒に中国に行きたいとも思っています」

がんに背中を押されて始めた大竹さんの夢を追う旅は、まだまだこれから先も続きそうである。

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