今、二つ目のいのちを伸びやかに生きている がんになって初めて気がついた、一番大切なのは家族だということに・樋口 強さん

取材・文:崎谷武彦
発行:2004年7月
更新:2013年8月

自分の生き方を決めたからもう迷いはなかった

写真:98年9月、病気後初めて全日本社会人落語選手権大会に出演

98年9月、病気後初めて全日本社会人落語選手権大会に出演。軽妙な語り口で会場をわかせた

ところが治療が終わったあとに樋口さんは、がんという病気が持つもう一つの怖さを知ることになる。

「治療が終わった途端、今度はいつ再発するか、いつ転移するかという恐怖が始まったのです。治療中は物理的な苦しさが現れるわけで、向き合う相手が見えるわけです。けれども治療がすべて終わってしまうと、途端に相手が見えなくなってしまう。これはつらいですね。あとから振り返ると、治療中の比ではないつらさです。がんと他の病気との一番の違いがそこにあります。私のがんの場合、再発する人はほとんど1年以内で再発するといわれていましたので、治療が終わってからの1年間は生きた心地がしませんでした。ちょっと頭が痛かったりすると脳に転移したのかと不安になり、背中が痛いと骨にきたのかと不安になる。そういう不安がだんだん生きていることへの恐怖にかわっていくのです。これは下手をすると自分で自分をつぶしてしまうことにもなりかねません」

では、このつらさを乗り切るにはどうすればいいのか。

樋口さんは、自分の生き方を決めること、どう生きるかという価値観を持つことが大事だと指摘する。

「私は二つ目のいのちを、家族を大事にし、家族と一緒に生きていこうと決めました。だから外科と内科の先生の意見が違っていたときも、迷わずに選ぶことができました。セカンドオピニオンの重要性がいわれますが、自分がどう生きたいのか分からないまま二つ目、三つ目の意見を聞いてもなおさら混乱するだけです。インフォームド・コンセントとは治療の選択ではなく生き方の選択なのです。だからこそ自分と家族がそこで主役になれるのです。もちろんその病気のことや医療のことなどを知るための勉強もしなければいけません。この病気は、物理的にも、精神的にも、必ず失うものがあります。それを自分が決める。がんとはそういうものだと思います」

ずたずたになった体を大地のエネルギーに助けてもらう

写真:樋口さんを支え続けた妻の加代子さんと

樋口さんを支え続けた妻の加代子さんと。病気の後、夫婦で話し合いながら、家を新築した。日差しがたくさん入り、木の香りがする家になった

そのうえで樋口さんは、仲間をつくること、自然療法を取り入れることなど日常生活で実行するいくつかの柱を定めた。がんでも生きている人がいるという事実を知るために仲間をつくることは大事であり、そのために樋口さんは患者会やがんの勉強会などにも参加した。また自然療法としては、玄米菜食、ヨガ、砂療法などを取り入れている。

「玄米はミネラルが豊富だとか免疫力を高めるから食べるのではありません。それだったらミネラルなどを点滴で入れても同じことですよ。そうではなくて、玄米は土に蒔けば芽が出る、いのちが宿っている。そこが違うのです。だから私はずたずたになった体を、大地の大きなエネルギーに預けてみようと思ったのです。砂療法とかビワの葉温灸などの自然療法もすべて大地の力というところに接点があるんです」

一方で樋口さんはリハビリにも取り組んだ。大量の抗がん剤による激しい副作用は重い後遺症を残したからだ。治療終了後も樋口さんは半年ほど立って歩くことさえできなかった。手足はしびれ、ペンや箸をつかむこともできなければ、温度を感じることもできなかった。そんな樋口さんに妻の加代子さんは退院直後から食器洗いや洗濯物たたみなどを頼んだ。それは仕事にしなければ長続きはしない、という加代子さん流に工夫したリハビリ法だった。

「がんになって私が妻に求めたのは、今まで通りに接してほしい、ということです。優しくされたり同情されたらこちらに負い目ができ、夫婦が対等の関係でいられなくなる。だから違うときはダメといってくれといいました。それに対して妻は、見た目のやさしさを隠し、勇気を持って私に接してくれました。自然療法との出合いも妻がきっかけをつくってくれたのです。がんと向き合い乗り越えていくとき、家族がいかに大きな役割を果たすものか、今になって私にはよく分かる。妻がいなかったら多分、今の私のいのちはなかったでしょう」

こうして樋口さんは手術から1年後には職場復帰も果たし、加代子さんに支えられながら二つ目のいのちを生きていった。そして2001年のある日、定期的に検診を受けている手術の執刀医から、こういわれた。

「合格です」

「来年もまた会いましょう」というエールを送る

写真:樋口さん独演会
写真:独演会の最後の手締め

独演会の最後に、出演者と会場の人全員が一緒に手締めをする。
「来年もきっとここ、深川で会いましょう」と言う樋口さんの「きっと」という言葉が重い意味を持つ

手術から5年が経過していた。ついに樋口さんは生存率が限りなくゼロに近いといわれていた5年を乗り切ったのだ。

「先生はまず妻に向かって『ご苦労さまでした。大変だったと思います』といい、立って握手を求めました。がんという病気が家族も大変な思いをする病気であることを知っていてくれたんですね。私はこれが一番うれしかった」

落語の独演会は大きな目標にしていた5年を乗り切ることができたその記念に開いたものだった。大学時代から落語研究会で活動し、その後も全日本社会人落語協会に所属して優勝の経験もある樋口さんにとって、独演会は初めての体験だった。

「落語をするのはあくまでも自分の楽しみのため。けど、それが仲間にも楽しんでもらえるならそれに越したことはありません。だから最初は1回限りのつもりだったんです。ところがやってみると皆さんとても喜んでくださったし、アンケートやお話を聞いても『来年もぜひ』という声が多かった。それで毎年やることにしたのです」

2002年の2回目からは、対象をがんの仲間とその家族に限定している。がんという病気は本人だけでなく家族も同じような苦しさを味わう。だからがんの本人と家族が主役になれる場をつくりたい。同じような経験や思いをしてきた人たちばかりが集まればお互い遠慮せずに泣き、笑うことができると考えているからだ。

「ただ落語を聞いて笑いたいだけなら、寄席があります。でも私はこの独演会を、一人でつらいと思っていた人もここにくれば遠慮せずに涙を流し、腹の底から大声で笑い、楽しみ、力がついてくる、そんな場所にしたいのです。一連の『病院日記』は作り物ではない私の体験に基づいた自作の落語です。みなさんも同じような体験をしていますから、自分に重ね合わせて涙している方が多いです。もちろん最後は大笑いして帰っていただきます」

アンケートには「落語を聞きにきて泣くとは思わなかった」「がんになって初めて大声で笑いました」などという声とともに、「来年も楽しみにしています、きっと来ます」と書いている人も多い。それに応えるように樋口さんはいつも最後にこんな挨拶をして、会場全員で力強い手締めをする。

『ここまできた自分をまず誉めてやりましょうよ。それからこれだけの大勢の仲間に、今日のいのちに感謝して、お互いにエールを送りましょう。そして来年もまた、きっと、ここ深川でお会いしましょう』―――。

「がんの人には、明日の約束はなかなかできません。だから来年もまた、というのはすごく重い意味を持つんです。私だって来年また独演会をできるかどうか分かりません。私たちは皆そういうリスクを負っています。だからまた次の1年間を楽しみながら生きていきましょう、自分が自分の体の応援団長になってあげて、あまり頑張りすぎない勇気を持って生きていきましょうというメッセージを送っているのです」

高座に上がるとき、樋口さんは病気をするまでは翁栄家はじ鶴と名乗っていた。しかし独演会をはじめるに際し、加代子さんの発案で羽太楽家はじ鶴に高座名を代えた。新しい亭号には、手術を執刀したあとも主治医として樋口さん夫妻を励まし支えてくれた医師の名前が織り込んである。

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