今は“おまけの人生”を思う存分楽しんでいる がんをくぐり抜けたとき、本当に大切な自分が見えてきた・種川とみ子さん

取材・文:崎谷武彦
発行:2004年5月
更新:2019年7月

私が私であり続けるということ

写真:初めての家族写真

画家として、あらためてスタートを切った第1回目の個展風景。作品の大きさと力強さに、種川さんの力強い「生」が息づく

種川さんは若いころから絵が好きで、学校では油絵を専攻していた。結婚する前も真一さんとデートするときは、デッサン帳をもって風景などをデッサンすることが多かった。その種川さんが義母に琴を習うようになってからは、絵を描くのをキッパリとやめた。主婦として家事をしながら琴も習い、そのうえに絵まで描くのはとても無理だったからだ。

しかし、胃がんになり、医師に「やりたいことをやれ」といわれたのをきっかけに、琴はやめることにした。

「私には自分の顔というものがなかったような気がします。義母といるときは種川さんのお嫁さんと呼ばれ、夫といれば種川さんの奥さんで、娘たちの学校やPTAの席などでは種川さんのお母さんと呼ばれる。種川とみ子という個人でいる世界がなかったのです。胃がんで入院していたとき、同室の方たちと一緒に病院を抜け出して喫茶店に行ったりしたことがあります。それがすごく楽しかったんですよ。誰かとの関係でではなく、私が私でいられたときだったからかもしれませんね。琴だって本当はやりたくなかったんです。それで、自分の世界は何かと思ったら、やはり絵しかないことに気がつき、また、絵を描きたいと思うようになったのです」

胃がんのときは1カ月半、入院した。その年の11月にあった琴の発表会で、義母と娘2人の4人でそろって演奏したのが最後になった。琴をやめることに対し、義母は何もいわなかった。

翌年の春、地元の公民館で開かれている油絵教室に参加。しかしそこは雰囲気に馴染めずすぐに退会し、別の会に参加し、ここで描いた絵を県展に出品し、2年連続で入賞した。10年間、このグループを基盤に活動しつつ、1990年からは県展以外どこの団体にも所属せず1人で活動し、2年に1回、東京で個展を開いている。

退院後は週に1回、ピシバニール(抗悪性腫瘍溶連菌製剤)の投与を受けた。これは5年間続けた。途中で1度、飲み薬に変えたこともあったが、副作用で足の皮がむけてボロボロになったのですぐにまた注射に戻した。

絵を描くことが癒しになった

3カ月に1回は、内視鏡で胃の組織を取る検査も受けた。しかし、そのたびに「胃が荒れている」と医師から指摘されることが多かった。検査のあとには必ず、酒もタバコもいけないし、コーヒーなどの刺激物も避けるようにと注意された。けれどもこの頃の種川さんは、そのどれもしていなかったのだ。それなのにいつも同じことをいわれるのが鬱陶しくなり、あるとき種川さんは検査の前日に煙草を吸い、夜更かしし、酒も飲んでみた。だが、検査の結果はいつもと同じだった。それからはタバコも酒も好きなだけ楽しむことにした。

「退院後、夫には、私の時間を少しちょうだい、といったんです。そうしたら『金と時間の許す限り、好きなことをしていい』といってくれました。だから私、一人旅でも何でもできたんです。実家の母が亡くなったときには新潟から東北の霊場を1人で旅してまわりました。その頃は子供たちもある程度大きくなっていましたし、まだ義母も健在だったので、安心して家を空けられたんです」

手術を受けたとき、10年たてば大丈夫と医師にいわれていた。だから10年たつまでは、再発や転移の不安もあった。もし再発したら、と考えると眠れないこともあった。ご主人との仲も結婚してからずっと平穏無事だったわけではない。波風が立ったこともある。そんなとき種川さんにとっては、絵を描くことが癒しになったという。

「夫とは、なんとなくお互いに避けていたような時期もありました。だから私、いつも深夜に絵を描いていたんです。絵を描くことで自分の時間を持てたのかもしれません。今は絵を描いて楽しんでいる私を見て、娘たちが同性として自分たちも私のようになりたいと思っているようです。継続は力といいますが、絵を描き続けてきて、本当によかったと思います」

人生を楽しもうとすれば、生きる力も強くなる

写真:作品の制作風景

情念から祈りへ。画風の移り変わりはそのまま種川さんの心の変化でもある

この間に種川さんの画風はずいぶん変化してきた。油絵はもう描いていない。今はペンや鉛筆によるモノトーンの絵がほとんどだ。以前は情念がほとばしるような絵が多かったが、今はずっと穏やかな絵になっている。1回目から3回目までは個展のタイトルも「炎」(ほむら)だったが、最近のテーマは「祈り」だ。絵としての評価はどちらがいいのか分からないが、絵に作者の内面が現れるものだとするなら、今、種川さんは昔と比べてずっと心穏やかな時間を過ごしているのだろう。

種川さんはがん以外にも何度か大病をしたことがある。小学校に上がる前には扁桃腺炎の治療に投与されたペニシリンが体に合わなかったため、一時的に目が見えなくなったり歩けなくなったりして、1カ月以上も入院した。19歳のときには盲腸が癒着して腹膜炎になる寸前だった。そもそも生まれてきたときが未熟児で、しかも戦争の最中。東京大空襲のときには母親の背中に負われて逃げ、すんでのところで生き延びたのだという。

「何度も死に損なって結局助かったのですから、生命力は強いのかもしれません。最近は、がんもせっかく治ったのだから、人生を謳歌しなくては、と思うようになりました。私の母方の兄弟は皆、がんで死んでいます。だから私もまたがんになるかもしれません。でも、そんなことばかり考えていたって仕方ないじゃないですか。私の友人に今、がんになっている人がいますが、彼女はいつも病気のことばかり考えて、付き合っているのも病気の人ばかり。あれではよくないなと思います。もっと前向きに人生を楽しもうと思うようにすれば、生きる力も強くなるはずですよ」

もしかしたら種川さんは、自分が一番好きだった絵を描くという行為によって初めて、母とか嫁とか妻という立場を演じるのではなく、種川とみ子という1人の人格として社会に対し自分を開放することができたのかもしれない。そして、絵を描くきっかけをつくったのは、がんだった。その意味でいえば種川さんにとってがんになったことは、人生の大きな転機となった。がんになったことで種川さんは“生き直す”ことができたのである。

病気をしたから見えてきた世界がある

「1日2箱吸っていたタバコはもうやめました。せっかくここまで生きたのだから、命を縮めたらもったいないでしょう。私は今年で還暦ですが、がんになったときはここまで生きられるとは思っていませんでした。今の私は、おまけで生きているような気持ちです。でも、おまけのほうがいい人生だなって思うんですよ。夫に対しても今はとても感謝していますし、夫のほうもきっと私と同じような気持ちでいることでしょう。長い結婚生活のなかで今が一番2人の波長が合っているときかもしれませんね」

今、日常生活で健康に気をつけてとくにしていることは何もない。自分を楽しませることを大切にし、嫌なことはなるべくしないようにしているくらいだ。絵のほかに今はアルコールも楽しんでいるし、連句の会にも入っている。なによりも、バアバ、バアバといってなんの計算もなく自分を慕ってくる孫といるときが楽しくて仕方ないと種川さんは相好を崩す。

「私はたまたま克服できたからいえるのかもしれませんが、がんを経験して本当によかったと思います。ずっと健康なままでいたら理解できない世界があることも、病気をして知りました。克服できるものであるなら皆、病気をしたほうがいいと思うくらいです。病気をしたことで私は今、1日1日を生きていることに感謝できるのですから」

今年、還暦を迎えるお祝いに種川さんは、2人の娘から夫婦でヨーロッパの美術館巡りをする旅行をプレゼントされた。来年は10回目の個展を開く計画もある。2度目のがんを経験してから23年、種川さんは今“おまけの人生”を思う存分楽しんでいる。

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