乳がん手術を体験して、痛感するのは「術後外来」システムの必要性 2度の危機、そして沖縄との出会いが脚本家に新しい道を切り拓かせた

取材・文:江口 敏
発行:2008年1月
更新:2019年7月

術後8年目に衝撃の乳がん再発

高木さんの体内でがん細胞が再発の機をうかがっていた。当初は「3年経ったら無罪放免」といわれ、その後、「5年経てば無罪確定」といわれたが、その5年もとうに過ぎ、最初の手術から8年が経とうとしていた。

乳がんは痛みがないというのが定説であった。現実に、高木さんが最初に乳がんを宣告されたときには、全く痛みがなかった。ところが、最初の手術から丸8年を迎える前後から、高木さんは痛みを感じ始めていた。シャツが触れただけでも痛い。おかしいと思いながらも、がんが再発したとは露ほども思わなかった。

赤坂の山王病院の人間ドックで再発が見つかった。平成15年のことである。「もう1度手術です」と言われた高木さんは、「違うでしょう。痛みがあるんです」と訴えた。しかし、このころには、乳がんでも痛みが出る症例があることが明らかになっており、再発は厳然たる事実であった。

「まさか8年経って再発とは……」、高木さんは信じられない思いだった。「乳がんには痛みがない」という情報も、「5年経ったら無罪確定」という情報も、結局覆された。医師の言葉だけに頼っていてはダメだ。今後の治療は自分自身がイニシアチブを取っていこうと、高木さんは改めて心に誓った。

手術は山王病院で行われた。最初の手術から8年が経ち、年齢も50歳代半ばを越していた。すでにリンパ節は切除している。手術後の放射線治療は慶應病院で行い、抗がん剤治療は山王病院で行ったが、そのつらさは8年前の比ではなかった。身体が石ころのように感じられ、髪もなかなか生えてこなかった。

慶應病院での放射線治療には5週間を要し、毎日、山王病院からタクシーで通った。その間、季節は秋から冬へと移ろっていった。神宮外苑の街路樹が日ごとに佇まいを変えていくのを、高木さんはタクシーの窓から眺めていた。

夏には青々と葉を蓄えていた樹木が、次第に紅葉し、黄落していく様子を日々観察しながら、高木さんは植物の激しい営みに感動していた。植物の葉は栄養をしっかり幹に与えてから落ちていく。物言わぬ植物の営々としたいとなみ。自分は激しい苦痛に萎えているだけではないのか。高木さんは抗がん剤や放射線の苦痛よりも、何もできない焦燥感に苛まれていた。

2度目の手術後の激しい焦燥感から高木さんを救ったのも、また沖縄だった。

石井好子さんに励まされノンフィクションに挑戦

写真:沖縄のさとうきび畑
沖縄のさとうきび畑

乳がんが再発する前、高木さんは毎年、沖縄戦が終わった6月23日に、沖縄戦で犠牲になった人たちを追悼し、平和の尊さを再確認する意味を込めて、毎年東京でささやかな催しを開いていた。

平成15年は40年も前に作られた「ざわわ、ざわわ……」と歌う「さとうきび畑」が大ヒットした年であった。その作詞作曲をした寺島尚彦さんの提案で、その年は6月23日から1週間、「さとうきび畑――歌と話の1週間」という催しを、2人で協力して、参宮橋のギャラリーで行った。

高木さんは、乳房に痛みを感じるからまさか再発とは思わず、イベントに奔走した。森山良子さん、錦織健さん、上条恒彦さんら、「さとうきび畑」を歌った歌手たちが日替わりで参加し、「ざわわ、ざわわ……」と熱唱した。話のほうは詩人の谷川俊太郎さん、シャンソン歌手でエッセイストの石井好子さん、カメラマンの大石芳野さんらが担当し、大成功だった。

その中で、石井さんが「沖縄の女傑 照屋敏子」という話をした。照屋敏子は20数年前に亡くなっているが、戦前・戦後を通じて沖縄の独立を夢見て、女だてらにさまざまな事業を起こして活躍した、スケールの大きな女傑である。

戦後、占領下にあった沖縄で、何とか戦地から復員してきた男たちを集めて漁に出、フカに喰いやぶられた網を繕うために、男たちが恐れて尻込みするフカがいる海へ、率先して潜っていったという伝説の女性、照屋敏子。沖縄と縁の深い高木さんは、照屋敏子を何回も取材している石井さんの話を感動しながら聴いたのであった。

2度目の手術後、深い焦燥感に苛まれるどん底の中で、石井さんの語った照屋敏子という激しく生きた女傑の話に惹かれていった。高木さんは、「また沖縄の強い光に当たりたかったのかもしれません」と言う。ある雑誌の編集者に照屋敏子の話を伝え、石井さんのインタビュー連載をすることになった。

高木さんの申し出を快諾してくれた石井さんは、取材後、「いつか照屋敏子のことを書くつもりだったけれど、もう私が書くこともないでしょう。あなたにぜひ書いてほしい」と励まし、敏子と対談したテープや資料を高木さんにすべて譲ってくれた。高木さんは新たな活力源を与えられた気がした。時間を見つけては沖縄通いをし、敏子の足跡を追いはじめた。

書き下ろしている最中の平成18年4月、奥野修司さんが書いた『ナツコ 沖縄密貿易の女王』という作品が、第37回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。同じ沖縄糸満の女性を書いたノンフィクションであった。高木さんは自分の作品が活字にはならないかもしれないと、一瞬ひるむが、石井さんとの約束を果たすために、気力を振り絞って書き上げ、その原稿を小学館ノンフィクション大賞に応募した。

選考委員の椎名誠さん、溝口敦さん、二宮清純さんらが強く推してくれて、平成19年8月、『沖縄の独立を夢見た伝説の女傑 照屋敏子』は見事、第14回小学館ノンフィクション大賞に輝いた。単行本は12月中旬に刊行される。

高木さんは石井さんとの約束が果たせたことにホッとすると同時に、沖縄の女性ものが続くという、前後の出版事情にとらわれず大賞に選んで下さったことに、「この世の中は、自分が思っていた以上に深く公正なものだということを実感しました」と、受賞の喜びをしみじみと語る。

自分の生命力を信じ新たな人生を紡ぐ

写真:「赤坂潭亭」にて
「赤坂潭亭」にて

今、高木さんの体調は万全ではない。2度目の手術後、骨への転移を防ぐためにホルモン療法を行った。5年間の予定だったが、2年半でやめた。骨がガタガタになり、立つのも座るのも難儀になって、日常生活が阻害されるようになったからである。この間、友人やお客さんが親切心から、温熱療法、免疫療法、健康食品など、さまざまな民間療法を紹介してくれ、いくつか試してもみた。しかし、それはますます迷いを深くするばかりだった。

術後外来の充実が急務だと、高木さんは思う。現在の日本のがん治療は、医師ががんを発見し、手術を行い、一定の放射線治療や抗がん剤治療を行ったところで終わっている。一定のがん治療を終えた人たちが、その後、現在の自分のがんの状態を的確に把握する医療システムは、まだ確立されていない。術後のがん患者は一般診療に行くしかないのが実情である。そこに、再発におびえながら満足に治療も受けられない「新がん難民」と呼ばれる人たちを生み出す素地がある。

高木さんは現在、3カ月に1回定期健診を受け、年に1回検査画像により全身のがんチェックができるPET-CT検査を受けている。こうした最先端の診断を受けるには高額の費用が必要で、利用できる患者は限られているのが現状である。だから高木さんは、医師が心理面のケアも含めて、術後のがん患者にもっと親身になって対応できるような、術後外来のシステムが確立されるべきだと考えている。

ホルモン療法をやめて以来、高木さんは自分の意志でクスリを飲むのをやめ、できるだけ自然に生活することを心掛けているが、ホルモン療法の後遺症か不眠症がある。また、夕方になると右半身がむくんできて、動作が鈍くなってくる。高木さんはその状態を「電池切れ」と呼んでいる。お店に出ていて「電池切れ」になると、従業員たちは気を利かせて、「電池切れですから、もう帰ってください」と言ってくれる。

がんは終わりを見つめることを教えてくれた。思いもかけなかった沖縄料理の店を開く力を与えてくれた。2度目のがんは、初めてのノンフィクションを書くという力も与えてくれた。

がんとの出会いがなければ、わたしの人生に料理屋は登場していなかったに違いない。そう思って振り返ると、2度のがんはたしかに衝撃ではあったが、ただがんの苦痛とだけ向き合って生きるのではなく、自分の生命力を信じながら結果として、別の世界に挑戦し、新たな人生を紡いでいくことになったのだと、高木さんは改めて思う。

最後にふっと目を閉じるまで、季節の移ろいの中で輪廻を続ける植物のように自然にあるがままに生きていたいと思いながら、高木さんは今日も、沖縄料理の店をかいがいしく切り回している。

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