「絶対泣かない」と心に誓い、膵がんと闘った1年(2)
入院たった1日で外泊
1月24日(土)入院2日目(自宅)
2日目の朝食は食堂で。広々とした窓から上野の不忍の池がよく見える。食事は全部食べたが下痢がひどくなり薬をもらう。心配したが外泊の許可が出た。
「駅からはタクシーで帰れよ」と主人が気遣ってくれる。家に帰ると一晩あけただけなのにとてもなつかしい。仕事を完成させる。現在進行形の用件は主人に引き継ぐ。夕食は、次女に作り方を伝授(?)するため、またホワイトシチュー。

お茶の水駅近くのニコライ堂
1月25日(土)入院3日目(自宅)
次女と洗濯物を干しながら、こんなこともしばらくできないな。もしかしたらずっとできなかったりして。ふとそんなことを思い、おもわず涙が滲むのを娘に悟られないように冗談を言ってごまかす。次女にワープロの引き継ぎをする。
昼過ぎ姉がお寿司を持って来てくれた。珍しく長女が昼間いたので、昨年姉と娘と3人で行ったハワイのビデオを見る。大手術直前だということも忘れてワイワイ言いながら楽しく見た。夕方主人が駅まで、そして夜仕事がある長女が病院まで送ってくれる。車を降りる際「頑張れよ!」と主人が力強く言ってくれた。
お茶の水で娘とラーメンを食べていたら病院の門限ぎりぎりになり慌ててタクシーで駆け込む。長女はこれから仕事場へ。みんな忙しいのに迷惑をかけるなぁと思う。すぐ消灯時間になったのに、なかなか眠れない。よりによって何でこんな厄介な所にと思うが、できてしまった以上医師を信じて頑張るしかない。何事もプラス思考で行こうと決めたんだから。
病気なんかに負けるもんか!
1月26日(月)入院4日目

2004年1月26日 入院中外出、神田明神にて主人と
朝食を食べていると、ひょっこり次女が現れた。「呼吸機能検査」があり、付き添ってくれた。
「今晩8時からK医師の検査説明がありますので、ご家族の方も一緒に聞かれるようなら同席してください」とM医師。主人と娘が同席することになった。インフォームド・コンセントというものねと思った。
午後は検査がないので外出許可が出た。家に帰って仕事をしようと主人に電話をすると、「仕事なんていいから、どこか散歩でもしていなさい」
上野に出て「アメ横」に行ってみた。沢山お店が並んでいて食料品などとても安い。思わず買いたくなって(あら私入院しているんだわ)とおかしくなる。主婦が染み付いているんだわと。
ぶらぶらしていると主人から電話が入った。お茶の水駅で待ち合わせる。主人は神田明神へ行こうと言う。見るとカメラを持っている。ドキッとして、最後になるかもしれない写真を撮ろうとしているのかと変な勘ぐりをしている自分が悲しい。お参りをしてからツーショットも撮った。日頃無信心の主人が病気平癒の御守りを買ったり延寿甘酒店に入ったり。おみくじを引いたら吉。「病気長引くが全快す」とあった。2人でほっとした。主人の気配りが嬉しかった。駅周辺を散策し次女と合流、15階の精養軒で夜景を見ながら食事、手術に向け体力をつけておかなければと、しっかり食べる。 8時から検査結果の説明があった。エコー、CTの画像を見ながら説明を受ける。
「1月19日の超音波で嚢胞とは別に新しい腫瘍らしきものが発見された。直径15~18ミリ位。(えっ? 12ミリでは?)はっきりがんとは言い切れないが限りなくがんに近い。部位は膵体部から尾部に近い場所で自覚症状の出にくい所。他に転移がなければ膵頭部を残して切除できる。脾臓も一緒に切除する。膵頭部のように、胆嚢、十二指腸の一部、胃の一部の切除という大がかりにはならないと思う」
全摘と言われていたので、これが本当なら膵臓の機能は幾分かでも残るとほっとする。
これからの検査として、●ERCP―膵管への造影及び膵液採取、組織の一部を採取●血管造影●MRI―腹部●CT―胸部●胃カメラ―転移の有無●腸―大腸への転移の有無。以上の説明のうえ、たくさんの承諾書にサイン。
食堂で10時半まで3人で話し合う。「大腸検査は同僚が腸を傷つけられ、長い間体調を崩した」と言うと主人が「その検査はやめてもらおう」と言ってくれた。寝静まった病院を2人は帰っていった。まだずいぶん検査があるなぁと思い、なかなか眠れなかった。
1月27日(火)入院5日目
「K医師と話し合って、今日のERCPは中止します。1日でも手術を遅らせない方がいいということで一致しました」と研修医。
限りなくがんに近いと思われるので、摘出したほうが良い。リスクの大きい検査はやめて、手術に必要な検査のみするということだ。私達の会話が聞こえたかのように大腸検査も、取りやめとなった。
検査の中止を知らせるため主人に電話をする。
「品川の水族館に行きたいな」
「ぼくもそう思っていた」と主人。以前からクリオネを見たいと言っていたのを覚えていてくれたのだ。午後品川で会うことにする。
娘が来たので喫茶店でコーヒーを飲みながらERCP中止について説明。娘も同感。昨晩皆で話し合い、例えグレーゾーンであっても、この際手術をしたほうが良いと家族で意見が一致したとのこと。もう迷うことは何もない。心静かに手術をうけよう。
主人と合流、品川の水族館へ。でも残念、臨時休業だった。
「どうする?」
「ママ、これは元気になってまたここへ来なさい、ということかもよ」と娘が言う。
「そうなるといいな」
まだ行ったことのないお台場に行きまず観覧車に乗った。最高地上115メートル、東京タワー、レインボーブリッジなどよく見えた。7時病院へ、8時半2人が帰る。仕事と私の付き合いで主人は少々疲れぎみのようだ。しかし私には思いがけない1日で、とても楽しかった。もともとタフなのかしら。こんなにピンピンしているのに手術だなんて、まるで「交通事故か辻斬り」に遭ったようなものだ。この言葉が気に入って私はよく使ったものだ。でも膵臓は沈黙の臓器、私の部位も自覚症状が出にくい所だから、1年経っていたらどうなっていたか。K医師も、おっしゃった。
「小川さんがご自分で命を拾われたのです」
1月28日(水)入院6日目
今日は血管造影があるので朝・昼食なし。10時頃O教授の回診。5年前と同じだった。
K医師が残り、「手術の日取りですが金曜か月曜どちらにしますか」と言われた。
「どちらでも」と答えると、
「では1月30日の金曜にします」
午前中胆肝膵外科(以下外科)のA医師の回診があった。いよいよ外科へバトンタッチらしい。エコーをとる。夕方内科、外科の合同説明があると主人に知らせる。手術が明後日だというと「それはまた早いね」と。どうせ切るなら早い方がいい。くよくよ考える暇がないから。
午後3時からいよいよ血管造影。同意書にサイン。毛を剃り、尿管挿入、ストレッチャーで検査室へ。右足の付け根3カ所に麻酔注射。チクチクする感じ。動脈に太い針を刺してカテーテルを腹部にまで入れ、造影剤を入れる。少し暖かい感じはするがとくに痛みも違和感もなかった。どのくらいたったのだろうか。右足の付け根に砂袋を乗せられ病室に戻る。絶対安静、寝返りは無論足を動かすことも禁止。家族全員来てくれた。今日はママの手術を決める日だからお前も来いと主人に言われ、長女は仕事をキャンセルしたそうだ。夕食がベッドに運ばれてきた。おにぎりとおかず。次女が食べさせてくれているとき合同説明が始まり、絶対安静の私はとり残された。
「秘密の話はないから心配しないで」とK医師。患者の気持ちがよく解る先生だ。残りの夕食は手づかみで食べた。体力を付けておきたい一心で。娘たちが戻ってきて「ママ逞しい」と呆れていた。これだけ逞しければ、手術は無事乗り切れると主人も娘達も安心したそうだ。後日次女から「がんではないかもしれないデータが出てきたが、内科的に詳しい検査をしなければわからないし日数がかかる。今の段階でがんでないとは言い切れない。外科の医師が「私の家族だったら手術をします」と言った。本人も手術に同意しているから切ることに決めた」と聞いた。
「術後に抗がん剤は使用するのですか」
「当外科では、過去膵臓手術後の患者さんに抗がん剤は使っていません。今1つ効果が望めないので」という会話があったそうだ。
忙しかった手術前日
1月29(木)入院7日目
午前中胸のCT。午後は胃カメラ、手術に向けて高カロリー輸液をいれるため首の付け根に点滴針の設置。新米のT研修医はなかなか出来ず、指導医があれこれ注意する。首は1つ間違えば大変なことになるのにと生きた心地がしない。私を安心させようとして「大丈夫ですよ」と指導医は言うが…ようやく終わって首にぐるぐるとテープを貼られた。疲れた。またもや私は練習台?
4時半頃麻酔科医の説明あり。麻酔の説明同意書に従って説明を受ける。麻酔が如何に大切かを知らされる。しかし説明を聞きながらふうっと溜息が出そうになる。
既往歴を聞かれたので、過去何回か胸痛があったが心電図では何ともなかったことを話す。
6時頃A医師から呼ばれた。過去に心臓の痛みがあったことを知って「心臓に欠陥があると手術が出来ないかも」と慌てていた。心臓の専門医が心臓のエコーをすぐ撮った。異常なしということで、明日の手術は決定になる。
外科の説明の途中で次女が加わった。手術の方法について説明、渡された図を見ると胸からお臍まで縦に、そこから左脇腹まで横にL字型に切開。大きく開いて手術しなければならないんだと、ひどく冷静に納得していた。説明書には●膵体尾部切除+リンパ節郭清●術後ドレーンという管が入る●手術後HCUに4泊5日●術後翌日には歩く●術後3日目位から食事が食べられるなど書いてあった。何枚かの同意書にサインをして終わる。執刀医のK助教授に初めてお目にかかったが、温厚でゆったりとした雰囲気を持っている。この先生に総てをおまかせしようと主人たちと話し、2人は帰った。
病室へ戻ると看護師が待っていた。明日の手術に向けて腸の中をきれいにするために下剤を渡された。本当は朝から何回かに分けて飲むのだが、忙しかったのでいっぺんに飲む羽目に。シャワーを浴び、洗髪を済ませ、看護師が毛剃りをしてくれた。よく眠るようにと言われたが、下剤で何度もトイレに行き、落ち着けなかった。「手術中は眠っているんだからいいわ」と開き直った。(続く)
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