「絶対泣かない」と心に誓い、膵がんと闘った1年(6)

読者投稿:小川嘉子さん
発行:2006年7月
更新:2014年1月

始まった副作用

今週は抗がん剤治療がお休みになったのでほっとする。4月初め頃から少し脱毛が始まった。朝ブラッシングすると、100本ぐらい抜ける。それに頬の上気で2~3日は少し、しんどい。

21日、ジェムザールの日に長女が付き添ってくれる。

「ときどきはご家族の方が来てくださるといいのです」とA医師。

「母は耳が遠いので、ちゃんと聞いているのか心配で……」と私を年寄り扱いしているが、家族に見守られていることを実感する。

22日、義姉たちが遊びに来た。「嘉子さん痩せた?」と言われ、初めてがんだったことを話した。

膵がんはダメージが強いので、聞いた人が気を遣うような気がして、私の姉以外、話していなかった。

5月(術後4カ月)

3日、ワープロを打っているとき急に目の前に黒いものがチラついた。手で払っても消えない。右目だけ。飛蚊症みたい。抗がん剤の日に話をすると「今まで飛蚊症の情報はないが、新しい副作用ということもあるので製薬会社に問い合わせてみます。今日は休みましょう」とのこと。

近所の眼科で眼底検査もしたが異常なし。「視力も良好だし、抗がん剤のせいではないでしょう。年をとるとなりやすくなる」と。後日先生から「製薬会社に問い合わせたが、1件だけ症例があったが副作用とは断定できないといわれた」と報告があった。

バスの中で赤ちゃんを抱いている人に席を譲ってあげた。そんなゆとりのある気分になれた、体力の回復が嬉しかった。

ゴールデンウイーク。どこにも行かない私のために、甥の家族が泊まりに来てくれた。孫代わりにしている娘Mちゃんは1歳9カ月で可愛い盛り。でもダッコができない、まだ腹筋が回復していないのだ。甥も私の体を気遣ってくれる。ママは私の手術の話を熱心に聞いてくれた。

14、15日。長女が仲間たちと年に1度開くライブを、家族や姉たちと聴きに行った。長女はミュージカルに出演していたが、今はスタッフとして演出や歌唱指導、教室などを持っているので、彼女の歌はこういう機会にしか聞けない。久々に華やかなステージ姿を見て、今年はとくに涙がこぼれそうになった。

17日、主人と小椋佳のコンサートを聴きに行く。独特の歌とトークがとてもよかった。この方もがんを克服して頑張っているのだ。「がんの人ってよく動くのよね」と姉が言ったことがある。いつ再発するかわからない、動けるときに動きたい、やりたいことをやりたいと思うから、じっとしていられないのだ。「今」が大切だから。自分のため、愛する人のために。

写真:「もみじ谷大吊り橋」で

術後初めて塩原温泉へ旅行。バスと歩きで日本1長い「もみじ谷大吊り橋」へ。さすがに坂道はしんどくて休みながら歩いた

24日主人と塩原温泉へ1泊旅行に出かける。お腹の“辻斬り”の跡が生々しいので、ちょっと贅沢だが露天風呂付き個室を予約。新幹線とバスに揺られて、まだ4カ月なのに旅行ができた。心ゆくまで温泉に浸かり、またも生きていることをしみじみ実感。とりわけ主人は満足そうだった。口には出さないものの、こんな日は来ないかもと思ったこともあっただろう。術後はなにを見ても、なにをしても“生きて���るからできる”と感激と感謝。この旅行は、私の体力回復を見定めるいいチャンスだったと思う。

29日、姉と次女の3人でディズニーシーへ電車で行く。昼前から閉館まで、休み休みではあったが本当によく歩いた。姉が心配しながらも「ずいぶん回復したものね」と呆れる。これも次女のエスコートのお陰である。感謝! 子供に帰って楽しいひとときだった。

30日、術後初めて内科のK医師の検診。主人が同行してくれる。

「抗がん剤も基本どおり投与できているし、副作用も、肝機能も大丈夫のようですね」

「A先生がいつも、いつやめてもいいんですよとおっしゃるのですが」と言うと、

「毎回聞かれても困るでしょう。ステージ2だったので、副作用がきつくなかったら1年位をめどに続けてみては」と言ってくださったので、1年間続けることにした。副作用について「吐き気止めを打っているから大丈夫なんでしょうね」と聞いたら、「いや、そんな生やさしいものではないですよ。結構きつくて基本どおり打てない人もいるんです」やはり私はタフなのかな。

主人が生存率について尋ねる。(データについて、やっと主人に話した)前回と同じ答えが返ってきた。主人はすかさず、「その人たちは抗がん剤を打っていない人ですよね」と聞き、「そうです」と言われほっとした表情。

「小川さんの場合は、手術後の現在、的があるわけではないので。転移があるかないか、抗がん剤で抑えているのか、なにもわからないのです。念のため打っているという感じで。だからA先生もやめていいと言うのだと思います。生存率は小川さんの場合、神経質にならなくてもいいかも」と。

本当にそうなって欲しいと思う。

「私がテストケースだから、長生きしていい結果を出せば、良い前例ができますものね」

「そうですね。がんばってください」と言われた。

6月(術後5カ月)

写真:ガラスの森美術館で

術後5カ月、6月11日より2泊3日の箱根旅行へ。帰りにガラスの森美術館で、カンツォーネを聴きながらの昼食。姉、次女と

10日、A医師にジェムザールを1年間続けると告げる。AHCCを4月から服用していることも告げた。先生もその後調べたらしく

「結構皆さん飲んでいるようですね」とおっしゃった。

「再発するとしたら、半年ぐらいですか」と聞く。

「小川さんは今、最高の治療をしているのだから、1年ぐらいは心配しなくてもいいでしょう」

11日、姉を誘い主人と次女の4人で箱根に2泊旅行をする。懐石料理がおいしくてつい食べすぎ、久々にお腹が痛くなった。左肩まで痛い。「無茶するな」と主人に怒られてしまった。

「傷口の回復にいいものね」と湯疲れがでないかと思うほど、温泉に浸かる。明け方の露天風呂に浸かりながら「生きていてよかったね」としみじみ……。3日間旅行を堪能した。3人は、私のタフぶりに圧倒されたよう。

21日、増富温泉に行く。テレビで紹介されてから予約も取れないほど人気の温泉。2年前乳がんの手術をしたNちゃんが「やっと取れた、6畳1間だけどいい?」と誘ってくれた。次女がネットで調べ、資料をくれる。

鉱泉は飲めるというので、恐る恐る一口飲んでみる。翌朝下痢をした。朝食後、本命の岩風呂に行く。宿裏の坂道を登ると小さな湯小屋があり、古い木造の加熱浴槽、冷泉浴槽、そしてすこし離れたところに、穴蔵みたいな岩風呂があった。4人くらいで一杯になるほど狭い。入った途端「おお、冷たい!」と叫んだ。20度弱らしい。じっと入っていると、体の表面に炭酸のような気泡がいっぱい。覆い被さるような天井の大岩からも、源泉が湧いているらしい。あまり長湯はしないほうがいいとかで、10分ぐらいで出た。こんな冷たい湯に入ったのに、汗がいっぱい。Nちゃんはそんなに汗が出ない。「おばさんは新陳代謝がいいのね」と驚いていた。これも回復力に関係しているのかな?

帰りに清里高原へ。牧場の香りのするレストランのテラスで、Nちゃんとがん談義をする。脱毛の話になったとき、彼女は1枚の写真を見せてくれた。そこには坊主頭の彼女が写っていた。「こんなだったんだ」という私に、彼女は「いい思い出よ」と明るく笑い飛ばした。この明るさが彼女を支えている、私も見習わなければと思った。若い彼女が私よりずっと大人に見えた。彼女のお陰でいい療養をさせてもらった。

増富温泉=山梨県北巨摩郡(現北杜市)須玉町小尾。泉質・放射能泉18~21度、無色透明。含有量は世界レベル。適応症は肝臓・糖尿病・胃腸病・神経痛・リウマチ・痛風など。口コミでがんに良いと人気に

7月(術後6カ月)

7月はもっぱら仕事。私たちの仕事は、年2回忙しいときがあるが、そのうちの1つの時期。役所や事業所へ1日5~6軒回ったものだが、今年は1日1~2軒と主人に決められた。昼食も立ち食い蕎麦で済ませたりしていたが、レストランか喫茶店で食後30分はゆっくりするようにと、家族に釘を刺されている。でもこんなに早く仕事ができるなんて、夢のよう。

私は術後にジェムザール治療をする最初の患者だから、がんばらなければ。自分を病人扱いするのはやめよう。もう元気なのだから。

術後6カ月間の体調

ジェムザールは2月から7月まで、基本のサイクルに従って16回。その間、中止は飛蚊症のときだけ。白血球の数値は4000~1万。差があったが中止するほどではなかった。肝機能も良好。ほぼ基本どおりにできた。

化学療法室はベッドと椅子があり、私はいつも椅子で本を読んだり書き物をしたりして、気を紛らわせていた。途中から小さなテレビが付いたので退屈しなかった。

4月半ば頃から脱毛が始まり、6月頃からは1日200本以上抜けていただろうか。全体に薄くなった感じ。そんな私の姿を見て、

「ママ、かつら買ってあげよう」と長女が言った。6月の末、ヘアピースを買った。見た目はきれいになり、気分は上々。でもNちゃんの写真が頭から消えないので先生に聞いてみる。ジェムザールで丸坊主になった人は今まで見ていないとのことだった。

美容院でいつもどおりパーマをかけたら、チリチリになってしまった。美容師さんは「いい勉強になりました」と。彼が結婚して独立したとき、私は役所の書類等をアドバイスした。以来ずっと彼の店に通って若い夫婦を見守ってきた。彼は私が病気をしたと知って「小川さんのためなら、いつでもどこでも鋏を持って飛んでいきますよ」と言ってくれた。“また1人、私を大事に思ってくれている人がいる”と励まされた。

頬の上気は必ず翌日か翌々日になった。この日は頬紅がいらない。気分がハイになり、朝からばたばたと仕事や家事をやりだし、家族にブレーキをかけられる始末。ジェムザールを打った日はやはり影響があるのか、寄り道するとぐったり疲れる。6月頃から、ジェムザールを打った日は、夕食の支度が免除になった。

ジェムザールは、1年は打つことに決めた。私自身、抗がん剤はがん細胞だけでなく、正常細胞も叩いているから、転移がないならダメージだけが残るのではという、不安がないわけではない。しかし、転移があるかないか、今は神のみぞ知るである。気持ちの整理ができるまでは続けよう。そういう意味では試行錯誤の毎日で、これからもずっと続くのだろう。

腫瘍マーカー(CA19-9)は、告知の日409という恐るべき数値だったが、26日目にやっと17と正常値に。その後1カ月ごとに検査を受け、2月から7月まで、10~13と落ち着いている。

消化器がんのなかでもっとも難しい膵がんの切除手術。医師や家族のおかげで私はこうして今、元気に日々を送っている。術後半年経った現在、仕事も家事も70パーセントは復帰できた。

退院後は、大きなフライパンを駆使することも、家族の好きなホワイトシチューの大鍋もお腹にこたえたものだが、1つずつできるようになって、「今日はこれができた」と毎日がとても新鮮だった。また花の手入れをしながら、私の小さな努力に応えてきれいに咲いてくれる花が、とてもいとおしく思える。がんになるまでは、ともすれば億劫に思えた毎日の家事が、それができるということが、生きている証として感謝の気持ちで受け止めていた。家族と一緒に、そして家族のための日々が、いつまで続くだろうかという思いが毎日のように頭をよぎり、1日1日が大切に思える毎日だった。平凡な暮らしのありがたさを、病を得て初めて知った気がする。

4月から法科大学院に通い始めた次女は、ハードなカリキュラムに追われている。今度は私がサポートする番、できる限り上げ膳据え膳をしている。長女も相変わらず忙しく休みもない。

また以前のように私を中心に家事が回っている。なにごともなかったかのように……。(続く)

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