武器を手術から化学療法へ変えて、なおもがんと闘い続ける 元大手製薬会社役員、川野和之さんの「壮絶な闘病日記」 その後

発行:2006年11月
更新:2019年7月

明らかに縮小したがん細胞

写真:2005年正月、癒しのハックンとドンジャラゲームで遊んで
2005年正月、癒しのハックンとドンジャラゲームで遊んで

話を2005年に戻そう。CTで転移が見つかり、医師から手術の適応ではないといわれた川野さんは、2005年3月から2度目の化学療法を受けた。抗がん剤はTS-1(一般名オテラシル・ギメラシル)とイリノテカン(商品名カンプト、トポテシン)。川野さん自身はちょうどこの時期に病院が行う予定だったオキサリプラチン(商品名エルプラット)の治験に入れてくれるよう希望したが、胃がんをしてからまだ3年半しかたっていなかったので治験対象外となり参加できなかったという。

このときはTS-1を3週間連続で毎日服用したあと1週休み、イリノテカンは2週に1回点滴で入れるというスケジュールだった。最初の約1カ月は入院し、その後は外来での治療であった。

副作用はこのときも激しかった。食欲不振は前回のときと同じだが、今度は脱毛の症状が現れた。治療開始後にすぐ始まり、3カ月後には全身の毛がほとんど抜け落ちた。頭髪とともに眉毛もまつげも抜けたため、人相がすっかり変わってしまったほどだ。

「毛がなくなったときはなんともいえない気持ちでした。抜けなかったのは髭くらいでしたね」

倦怠感もきつかった。イリノテカンを点滴したあとは、帰宅するともう何もする気がせず、横になっているばかりだった。ただイリノテカンの副作用でもっとも危険とされる下痢の症状はなかった。川野さんの場合は逆に便秘になった。

一方で効果もはっきりと出た。腫瘍マーカーが緩やかだが確実に下がっていったのだ。がん細胞も明らかに縮小した。実はこのとき、病院はTS-1の自主治験を行っていた。川野さんは対象にならなかったが、3人の患者が治験を受けていた。医師の説明によれば、治療内容は川野さんも治験患者とまったく同じだったという。だが、治験の患者は副作用が激しい割に効果があまりなかったので、3人とも途中でリタイアした。皮肉なことに治験対象外の川野さんだけが効果があり、約11カ月間続けられたのである。

医師の反対を押し切って旅行へ

写真:2005年10月、幼いころ遊んだ吉松神社で姉と太極拳を
2005年10月、幼いころ遊んだ吉松神社で姉と太極拳を

化学療法を始める前には20くらいだった腫瘍マーカーは、治療開始後3カ月ほどで1桁になった。そこで川野さんは昶子さんと一緒に生まれ故郷の大分に旅行することを考えた。だが、主治医はこの旅行に強く反対した。

「抗がん剤はいずれ効果がなくなり、続けられなくなる。そういう場合は次の治療に移行するが、移行するまでしばらくの期間、治療を休むことになる。旅行に行きたければそのときに行けばいい。せっかく化学療法の効果が出て絶好調のときなのに、なぜ治療を休んでまで旅行に行くのか」

それが主治医の意見だった。これに対して川野さんの主張はこうだ。

「TS-1は毎日服用しなければいけません。その���かに胃薬とか便秘薬、制吐剤なども飲まないといけない。毎日ものすごい量の薬を飲まないといけないわけで、それが苦痛だったんです。TS-1は白いカプセル剤ですが、僕は毎日それを見ただけで気分が悪くなりましたし、飲めば飲んだで食欲がなくなり、何もする気がなくなります。だからとにかく1回、休みたかったのです。化学療法は決められたスケジュールの80パーセントを守ればいいと書いた本を読んだこともあります。ここで休めたら、またもう1回仕切り直しで頑張れるという気持ちもありました。それにもし先生のいうとおり、次の治療に移るときにしたとしても、そのときは体力が弱っているかもしれません。だから元気なときに行きたいと考えたのです」

こうなるともう治療方針の域を超えている。価値観や生き方そのものの問題といえる。いずれにしても最終的に決定するのは、患者自身である。そして川野さんは自分の主張を通させてもらった。

再び腫瘍マーカーが上昇

写真:2006年2月11日、体調が良く、急に富士山が見たくなって
2006年2月11日、体調が良く、急に富士山が見たくなって

9月末から10月初旬にかけて川野さんは子ども時代を過ごした大分を夫婦で訪れた。高校時代の通学路を歩いたときには魂が揺さぶられ、熱いものが体のなかを駆け巡り、「免疫力が高まる」のを確かに感じた、と川野さんは記している。

「この想い出巡りの旅には、大分在住の姉、福岡在住の弟も同行してくれました。小魚を釣った川とか三角ベースをした神社の境内、幼稚園や小学校……。子どもの頃に親しんだ場所を久しぶりに再訪し、気持ちが落ち着きました。癒されましたね。自分にとってはやはり旅行に行くことが大事だったのです」

この頃、川野さんは自分が亡くなったあと1人になってしまう昶子さんが入るかもしれないと、老人ホーム見学等もしている。墓地も購入した。一見するとそれは“死への準備”に映る。けれども一方で川野さんはこうもいう。

「お寺に頼んで夫婦それぞれ生前戒名もつけてもらいました。でも先がないからというのではなく、もともと寺や神社が好きということもありますし、寿陵(生前にお墓を建てること)というのは大変縁起がいいとされているのです」

旅行に行って治療を休んだことが原因なのかはわからない。しかしその後、腫瘍マーカーは再び少しずつ上がりはじめた。さらに2006年の2月になると、肺に新しい転移巣も見つかった。そのためTS-1による治療は打ち切り、新たな化学療法を受けることになった。今度はオキサリプラチンなど3剤を併用するFOLFOXである。オキサリプラチンはそれ以前から川野さんが大きな期待を寄せていた抗がん剤であった。今回はポートを鎖骨下に埋め込み、5-FUを持続投与する方法がとられることになった。

いつか治るかもしれないという希望

写真:2006年7月末 甥の長男孝介君と
2006年7月末 甥の長男孝介君と

しかし2006年2月末からFOLFOXによる治療が始まったが、腫瘍マーカーは少しずつ上昇し、がんも増大し、副作用も相変わらず厳しかった。川野さんにはまったくといっていいほど効果がなかったのだ。結局FOLFOXは早期に打ち切り、8月からはイリノテカンなど3剤併用のFOLFIRIによる治療を始めて現在に至っている。

「最後の砦と思っていたオキサリプラチンが効かなかったときはがっかりしました。今回も副作用はやはり出ています。でも最近は深刻に考えることは少なくなりました。この2~3年で大腸がんのいい薬がずいぶん出てきていますので、これらの組み合わせで1年いければ次は……という計算がある程度成り立つようにもなってきました。ここまで頑張ったら、さらにもっといい薬が出てくるかもしれない。そうするとまだこれから生きられる可能性が増すかもしれない。もしかしたらそのうち完治できる薬もできるかもしれない。そういう希望を持って諦めずにやっていくつもりです」

抗がん剤治療のつらさなど、この間、自分ががん患者になって見えてきたことがいろいろある。大都市圏と地方のがん医療の格差が大きいことにも気がついた。製薬会社に勤めていたときの経験や知識も生かし、これからは患者の立場からそうしたさまざまな問題に取り組んでいきたいと川野さんは静かな口調でいう。

がん発症から丸7年。何度も手術を繰り返し、もう無傷の臓器はほとんどない。化学療法の後遺症や副作用には今でも苦しんでいる。それでも川野さんは諦めない。

「僕はね、苦しかったことを忘れてしまうんです。だからまた立ち向かっていけるんですよ。『いつも笑顔で』ですよ」

川野さんのがんとの闘いは今、8年目を迎えている。

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