「いつも笑顔で」と転移がんと闘い続けた5年間 ある大手製薬会社元役員の壮絶な闘病日記
知らされなかった「早期胃がん」
2001年8月1日悪夢の日が突然やって来た。先月19日の検査結果についての診察と、胃内視鏡検査の日だった。「検査結果はOKです。よかったですね」とA先生。妻と顔を見合わせ、あと3カ月との期待が膨らんだ。しかし、それもつかの間、昨年の胃内視鏡の写真を見ていたA先生の顔色が急に変わった。
「川野さん、昨年の結果お知らせしていませんでした?」「ああ、葉書で“異常なし”といただきましたが」
それからのA先生は、慌てて席を立って電話したり、部屋を出たりという具合。「すぐ内視鏡室に行ってください。K先生には話していますので」と告げられた。
「いったい何があったのですか」と質すと、先生はばつが悪そうに小声で「昨年早期がんの報告を受けていたのに、川野さんに連絡していなかったようです」
内視鏡室に行くと、K部長はすべてを把握していてきちんと謝ってくれました。「検査結果は昨年付箋をつけてA先生に渡したのに、川野さんに伝えていなかった」とのことです。「私が直接話せばよかったのですが、いつもしているように主治医から話すのが病院のルールですので……」。当時は、検査結果はA先生が葉書で知らせてくれるシステムとなっていた。手元にある昨年7月17日の内視鏡等の結果の通知には、何度見ても異常なしとはっきり書かれている。
どう言われようが私の怒りは収まらない。A先生は「手術になりますが、内視鏡で少しすくうだけの簡単な手術です」と自分のミスも大事に至っていないことを強調したいようだった。
しかし、K部長からはそんな楽観的な見方と違って「低分化の胃がんであり、川野さんはまだ若いので、取り残しの心配の無い胃亜全摘が適用されると思います」と明言された。
なぜこのようなミスが起きたのだろうか。まず医師の多忙さがあげられる。次に検査結果を葉書で知らせる仕組みが問題である。患者と対面した診察ならばこんなミスは防げたはずだ。後にこの仕組みは変わったが。
次に、一般に外科の医師は手術が終わった患者に対して治療意欲が薄れてくることに起因すると思える。手術を待つ患者が次から次にいるので、手術を重視する外科医師の意識はどうしてもそちらにとられがちになるようだ。これが最大の理由だと思うが、K部長ははからずもこれで2度目(A先生のミスの回数か、全体のミスかは不明)と言った。そうした言葉が出ること自体が明らかに危機管理意識が欠如していることを表している。こんな重大なミスは繰り返してはならないことに気づいていない。病院の体質であろう。
入院中に、CTやUS(超音波検査)の予定が入っているのに平気で食事を運んで来る看護師、入院前の外来検査で終わっている検査なのに、入院したらまた呼ばれ、事情を話さねば理解しない検査の人達。細かいことを言い出せばきりが無いが、病院全体の危機管理、患者志向が徹底化されていないことに原因��あると思う。
医療の世界の前近代的封建的なことは今までの営業活動で見てきた。長年当たり前に医療を続けてきているだけに、根が深く課題が多すぎる。大改革が見えてくるのは頭の固い権威主義、形式主義を重んじる今の60歳以上の先生(すべての医師ではないが)の影響力がなくなる時代までは望めない気がする。
再び肝転移を発見
とにかくこれは病院のミスであり、4日の入院が即、決まる。主治医も胃専門のO先生に替わってもらう。
8月10日、CTにて肝転移の疑いが出る。USを試みても明らかにならない。MRIでやっと肝のう胞の疑いが示唆されたが、肝転移も捨てきれない。少し安心する。O先生は「13日に胃の手術をして、肝手術は3カ月後でいかがでしょう」と言うが、「1回で済ませてください」とはっきり言う。「誰のせいで手術になったのか」との気持ちが根底にある。そうなると、肝チームとの連携が必要となり、13日の手術は無理。その調整で手術場は各科オペ予定の大変更を迫られて大騒ぎになったらしい。
手術は15日に変更となった。胃の手術をしたことで、体重は8キロ落ち、その後ダンピング症候群にずっと悩まされることとなった。私にしてみれば全く余計な手術である。しかし悪いことばかりではなかったようだ。肝転移が下大静脈に食い込んでおり、もっと後で見つかったら危険だったらしい。
また、この胃の手術者のO先生に出会えたことも、その後の闘病の大きな支えとなった。その後主治医になってもらうことをお願いして、いろいろな件で何でも話し合える間柄になれた。今ではメールを通じて意見交換もする。もっとも家内はこのときのミスで、告訴も辞さないとかなりO先生に食い下がっていたらしい。納得いかなければ徹底して追及するのが家内の長所である。
自分のため、家族のための人生

会社の合併は4月にスタートしたが、落ち着く間もなく胃の手術で2カ月ほど休む羽目になった。合併時、リストラを進めた立場から、自分自身が病気で休む事態になりながら、会社にいることが自責の念にかられる毎日だった。高度成長期にサラリーマンとなり、企業戦士、会社人間とおだてられ、行動規範はまず会社ありきの自分が、果たして会社生活と縁を切れるだろうか。
このことは最後まで悩んだ。家内とも話し合った。そして家内が言った言葉で一歩前に進めた。「がんになったのだから、ここで辞めても誰も落伍者とは見ないでしょ」。その通りだった。私はそのときまでまだ他人の目を気にして生きていたことに気づいた。サラリーマン生活とは、結局他人の目を常に意識した、自分を良く見せようという虚飾の生き方なのだ。
自分の意思の力で生きていく人生というのは、ストレスもなくなるだろう。人のための人生ではない、自分と家族の人生をこれから志向して行こう。まず闘病ありきだ。胃の手術までは、現役復帰が目標で、気持ちは前向きだったが、免疫力を高める生活からは遠かった。そのこと自体は後悔するものではなかったが、今後はがんを中心にすえて、自分の納得のいく人生を送ろう。
家内は常に私と一緒にがんと闘ってきたが、それを当たり前ととらえている自分がいることにも気づいた。家内には家内の人生があるのに犠牲にさせてしまっている。自分中心に考えるのは止めねば。
会社を辞める決心がついた。2001年一杯で退職して、次の年は顧問として1年勤務することになった。有難いことに、それからも、私の生活に支障をきたさない範囲での仕事の申し出があり、教育研修会社の顧問と介護会社のお手伝いを通して社会とのつながりは保てた。
がんが中心の生活では、講演会、フォーラム、公開講座など家内と手当たり次第出掛け始めた。一方2人で、四季折々の移ろいを見て楽しむ小旅行にも出かけたり、絶えずサポートを続けてくれている妹夫婦と一緒に温泉にも出かけた。身の回りにこんなに多くの幸せが存在していることに驚いた。家族、親族、理解し会える友人、感謝することの連続の毎日となった。
免疫力向上の処方箋の中から、フルツロン、タガメットをはずした。効果が無いとわかったからだ。これからの闘病の基本方針は、「切って、切って、切りまくる」であり、またがんは全身症状の病であることから、免疫力向上の処方箋を今度はきちんと実行することが必要だ。
まず生存5年を果たし、その時点で次の5年を目指せる状態でいることが目標だ。
肺転移。3度目の手術
11月27日、胃の手術から3カ月しか過ぎていないのに、O先生から申し訳なさそうに、「残念ですが、右肺に1センチ、左肺に1ミリと2ミリの転移があります」と告げられた。「更に増えないかこのまましばらく経過を見ましょう」
さすがに一瞬がっくりした。しかし、私が「手術できますね」と尋ねると、O先生は「大丈夫ですよ」と言ってくれた。
「そうだ、転移は織り込み済みだった。手術して取ればよいと決めたではないか。よかった。取れる場所の転移で。後は、免疫力向上処方実践だ」。転移して喜ぶのも珍しいが、取れることは本当に嬉しかった。暗い顔をして、落ち込んで塞ぎこんで、それでがんがなくなるのならいくらでもそうする。どうせなら前向きに行こう。「いつも笑顔で」をモットーにと心に決めた。
2002年3月のCTで、転移の数は増えていないが、大分成長してきたことがわかった。O先生は「川野さんは手術したいのでしょう。うちの呼吸器科は肝転移が2度あり、肺に3個あるような例は手術対象から外れると言います。T病院なら手術するそうですが……」
迷うことなく、T病院を選んだ。脳CTをまず撮られた。T病院でも脳転移があれば手術しないのだろう。4月3日入院で5日に手術だった。消化器の手術と比較して術後は楽で、16日退院時にはもう普通の生活に戻っていた。
同じカテゴリーの最新記事
- 病は決して闘うものではなく向き合うもの 急性骨髄性白血病を経験さらに乳がんに(後編)
- 子どもの成長を見守りながら毎日を大事に生きる 30代後半でROS1遺伝子変異の肺がん
- つらさの終わりは必ず来ると伝えたい 直腸がんの転移・再発・ストーマ・尿漏れの6年
- 家族との時間を大切に今このときを生きている 脳腫瘍の中でも悪性度の高い神経膠腫に
- 子どもの誕生が治療中の励みに 潰瘍性大腸炎の定期検査で大腸がん見つかる
- 自分の病気を確定してくれた臨床検査技師を目指す 神経芽腫の晩期合併症と今も闘いながら
- 自分の体験をユーチューバーとして発信 末梢性T細胞リンパ腫に罹患して
- 死への意識は人生を豊かにしてくれた メイクトレーナーとして独立し波に乗ってきたとき乳がん
- 今を楽しんでストレスを減らすことが大事 難治性の多発性骨髄腫と向き合って