「いつも笑顔で」と転移がんと闘い続けた5年間 ある大手製薬会社元役員の壮絶な闘病日記

発行:2005年2月
更新:2019年7月

度重なる転移

写真:姉夫婦とクルージング

2003年4月、2回目の肺手術の直前。姉夫婦とクルージング。このときは2回目の手術をすることになるとは思わなかった。

2003年元旦、がん発病から4回目の正月を迎えた。去年の肺転移で終わりでありたいと願ったが、4月のCTで左肺上葉に1.4センチの転移が見つかる。しかし手術で取れるらしい。良かった、うれしい。これだけ転移を繰り返すので、他に転移が無いか、PET検査をするが幸い何もなし。

5月12日入院。14日手術。左肺上葉切除及び肺門部及びリンパ節郭清。

30日に退院したが前回と同じですぐに普通の生活に戻れた。

この時から、G病院の主治医O先生、肝を主体にT病院K先生、肺はN先生と3人の先生に診断してもらうことになった。

7月17日埼玉で開かれたがんフォーラムに家内と出かけた。関原さんが演者の一人だった。

話す内容の一つひとつが納得いく。これが縁で、8月7日に勤務先のみずほ信託銀行でお会いすることになった。時間の経つのを忘れて、話し込んだ。いろんな点で話がかみ合った。最後に「川野さんも闘病記を出して同病者に元気を与えて下さい」と言われたが、「5年経過して元気な状態なら意味があると思いますから、そのときに考えます」と笑ってお別れしたが、がん闘病の目標の人との時間は実に有意義だった。

8月21日T病院呼吸器科N先生からCTの結果肺門部リンパ節転移の疑いを指摘される。

確認のためPET検査を9月1日に行うが、右肺門部リンパ節転移と肝上縁部転移の疑いありの診断だ。N先生はこれは体中にがんがめぐっている状態であり、もう後は、抗がん剤治療しかないと言う。T病院呼吸器科では抗がん剤の標準治療しかできないのでG病院で治療するほうがよいと言われる。後は延命治療しかないというところまでとうとう来てしまった。

後1~2年の命かな。この時は徹底的に打ちのめされた。あれだけ手術を受け入れ頑張ってきた心の張りが一挙に崩れ去った。さすがに、笑顔も浮かんでこない。食欲も落ちた。布団に入っては何度も何度も幾夜もため息をつき続けた。かすかな期待は、9月に2.5ミリスライスCTで診たときにリンパ節腫脹は無いとのG病院O先生の知らせだけだ。

講座を受けた活性化リンパ球療法をやろうかとも頭をかすめたが、大腸がんの新薬情報に期待して、何とか前向きな気持ちを取り戻しG病院内科を訪れることにした。

内科での抗がん剤治療

O先生にいきさつを話し、内科にまわしていただく。M先生は「前の肺転移のときに自分のところに来ていれば4回も手術しないで済んだのに」と手術したことにあきれていた。

自分はこれまで、手術で切除してしまうことで、治癒の可能性が高まると信じてきた。少し、複雑な気持ちになってきた。しかし、話していくうちにわだかまりは解けた。���薬について大腸がんにもかなり期待できるものがあると、説明してもらった。ここに来て、今までより大腸がんの抗がん剤の新薬の手持ちがうんと増えてきている。治験も来年から始めるらしい。何とかそれに加えてもらえればよいが。

5-FU+ロイコボリンを、6週投薬2週休薬をワンクールとして、4クール実施した。11月に始まって終わったのは翌年の2004年6月だった。ワンクール5回目から吐き気が強くなってきた。点滴の匂いがいけないのかとマスクをしてのぞんだり、CDを聞いてそれに気持ちを集中させたり、寝てみたりしてみたが一向に効果が無い。

先生に尋ねても「川野さんのはまだ軽いですよ」の一言で一蹴された。しまいには、風呂の湯を見ただけで点滴液を連想して吐くようにまでなった。2週間の休みはありがたかった。それでも何とか最後まで終了させた。途中のCTでも効果は不明だった。途中で何度止めようかとしたか知れない。

効果が不明であり、このまま続ける意味は無いため、7月にPET検査の結果を見て次の手を考えようということになる。PET結果では、肺門部リンパ節への言及はなくなっており、肝上縁部のみの単箇所転移の可能性が指摘された。M先生はこれを受けて、外科で手術の可能性を聞いてみて下さいという。まさに夢のような話ではないか。もしかして手術できるかもしれない。小躍りして外科を受診する。

すでに「教科書の範囲外」

写真:抗がん剤治療中に休みをもらって北海道に

2004年5月、抗がん剤治療中に休みをもらって北海道に。

CTフィルムとPET報告を持ってT病院肝臓外科に行く。K先生は、「MRIを是非取らせてください。もっと確認してみたいから」と熱心に言われる。主治医のG病院O先生の受診前だから返答に窮したが、お願いした。結果が出たので再び受診したら、はっきりと肝転移が写っている。しかも不幸にも膵にも怪しい影がある。

K先生はすぐに呼吸器科のN先生を呼び、「PETで肺門部の転移は確認されておらず、手術対象だと思うがいかがでしょう」と言い、答えを待つ。これまで、肺門部リンパ節転移の可能性を認めてきたN先生は、「まず入院して胸腔鏡検査で生検をした上で、もし肺転移が否定されればその後引き続き肝手術に入るのが良いのでは」と提案する。その線で取り敢えず入院予約を入れる。K先生に、もしもリンパ節転移が認められた場合でも手術は出来るかどうか確認したら、先生は「その場合は私の一存では決められないので、教授に相談せざるを得なくなります」と言った。

その時に発した先生の言葉は非常に印象的だった。

「川野さんのがん経歴は、もう教科書を超えています。私どもは、可能な選択肢は提示できますが、決めるのはあなた自身です」

先生方がこれが答えですと示すことができないところまできていることを改めて認識した。西洋医学のがん治療の限界なのだろう。

「5年間」の目標達成

その一方でG病院でもMRI結果が判明し、受診する。O先生にT病院のいきさつを正直に話してK先生からの報告書を渡す。G病院では、MRIで膵に腫瘍は確認できていない。リンパ節転移についてはO先生が事前に呼吸器科と話してくれていて、転移と決定づける根拠は薄いとのことだ。

肝臓の専門医Y先生にも同席いただいて検討する。Y先生は2回目の肝転移のときの手術の執刀者で、前回の状況は良くわかっている。T病院とG病院のどちらを選ぶか迷ったが、K先生の言われるように、決めるのは私自身だ。考えた結果、G病院での手術を決めた。後の化学療法を視野に入れた選択でもあった。慌しい1カ月だった。

9月10日に手術で、10月11日に退院だった。これまでの手術による癒着をはがすのに5時間かかったそうだ。肝、膵、脾臓などにはさらに5時間を要し10時間の大手術となった。それでも「手術できるのならまだ挑戦します」とY先生にお願いしていた。

膵液の漏れによるドレーン跡の処置に時間がかかって退院が遅れたことと、脾臓摘出による胃への影響でダンピング症候群がひどくなり、食事がとれない状態がしばらく続いた。

こうして生存5年を迎えたが、まだまだ闘うに充分な気力、体力を保有しての5年間の闘病は、目標達成だった。次の5年も同じように、「いつも笑顔で」。


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