「肺がんよありがとう」と言える幸せな闘病の日々 有効率18%を信じて、私はイレッサ療法を選んだ

発行:2005年3月
更新:2013年4月

退院して通院治療に

その後も、顔ににきびのような発疹ができた他には大きな副作用も出ず、CT検査のたびにさらに主病巣が縮小し、右肺の小さい転移もほとんど消えて、経過がよかったので、イレッサ内服を始めて3週間後の11月5日に退院となった。あとはしばらく1週間に1回、安定してきたら2週間に1回の通院で、診察と検査を受けながら治療を続けることになった。

むろんイレッサを続けていても、耐性ができて腫瘍が再び大きくなることもありえるとのこと。また、右肩に軽い痛みがあり、鎖骨の腫瘍がある疑いも残っているし、肺がんは転移しやすいことは知っていたので、さらに骨や頭への転移が起きるかも知れないという不安もあった。しかし一応イレッサの有効率18.4パーセントの中に入れそうであることを喜び、明るい気持ちでがんと共に1日1日を大切にして、美味しく食べ、美しいものを見て感動し、主人と仲良く笑って生きようと思った。

11月5日は主人の71歳の誕生日であった。この日に退院して、我が家の気持ちのよいベッドでぐっすり眠った。

退院後は、2週間に1度の通院でイレッサの内服療法を続け、検査の度に病巣はさらに小さくなってきたと言われ喜んだ。

退院して間もない頃に、書店で10月から発刊された『がんサポート』を買い、その後毎月講読を続けているが、その中にもイレッサは効く人には劇的に効くと記されており、自分がその中に入れた幸運に改めて感謝した。また、がんと共に前向きに生きる人たちの体験談や対談などを毎回読んで、どんなに力づけられたかわからない。

がんという病気やその治療法についても、エビデンスに基づいた記事を読んで大変勉強になった。今までは自分も健康だったし、主人はずっと勤務医なので家では医学的な話を聞くことも少なく、医師の妻でありながら病気のことについてはまったくの無知であったが、「今ではがんについてはお母さんのほうが詳しくなったね」と主人に言われるほどになった。やはり病気についてある程度知ったうえで、自分で納得できる治療を選びたいと思う。

穏やかな退院後の生活

私の退院後の生活は、まず朝6時頃に目覚めて、ベッドの上で10分程の軽い柔軟体操をし、6時半から30分あまり散歩することから始まった。

入院中に筋肉が弱って膝が痛かったので、初めは膝にサポーターをし、風邪をひかぬようにマスクもして、それでも手を振って少し大股でゆっくり歩いた。帰りに主人が作っている菜園に寄って、少しばかり産物を採って持ち帰るのも楽しみだった。そのうちサポーターをすることも忘れ、畑への近道になる70段の階段も、手摺りに頼らず上がれるようになり、自分でも驚いた。


2004年8月。朝の散歩の帰りに、ご主人が作っている菜園にて

この散歩は今でも、雨の日以外毎朝続け、阪大病院に1カ月入院した間も、広いキャンパスの木陰の下を毎朝6時から30分程、ウォークマンでFM放送の音楽を聴きながら歩いた。楽しくて、病気であることを忘れるほどであった。

主人は8時半頃に出勤するので、散歩の帰りに採ってきた小さな胡瓜丸ごとにもろみ味噌を付けて食べたりして、ゆっくり朝食をすませ、元気な午前中に洗濯や掃除、買い物などもしてしまい、副作用で少し疲れやすさを感じる午後は、音楽を聴きながら本を読んだり、日記や手紙を書いたり、庭の花の手入れをしたりして過ごした。がんになる前の忙しかった生活をうんとローチェンジした穏やかな日々である。

夜は10時頃に就寝するようにし、自分流の腹式呼吸のあと、気持ちよくなったところで、「イレッサが効いてさらに私のがんが小さくなってきた」と自己イメージして眠りにつくことにした。

免疫療法の臨床試験受ける

ところが、2004年の春頃から肝機能が悪くなり、疲れやすくなった。また手の指先が割れてズキズキと痛み、好きな料理がやりづらくなったことがつらかった。加えて6月に受けた骨シンチ検査で骨盤に新しい転移が見られるという診断があり、イレッサも限界かも知れないと不安な心が揺れ動き、8カ月飲み続けたイレッサを止め、7月中旬から免疫療法の臨床試験に参加した。イレッサの副作用は全て消え、顔の発疹も指先の痛みもすぐに治り、肝機能の数値も平常に戻り、非常に元気で気持ちのよい4カ月を過ごせた。自分ではもうがんは消えてしまったのではないかと思うほどだった。しかし、たびたび受ける検査の画像による所見はあまりよくなかった。急激にがんが大きくなることはなかったが、じわじわと少しずつ浸潤が大きくなってくるようだった。

そして、イレッサ内服でなくなっていた右肺の小さな影も現れるようになると、やはり副作用があってもイレッサで腫瘍が小さくなるほうが望ましいと、10月に免疫療法を打ち切って、イレッサによる治療に戻ることに決めた。

期待したような良い結果がでなかったのは残念だが、やってみなければ分からないことだったから納得できたし、4カ月気持ちよく過ごせたことと、あまり進行しなかったことを幸せと思い、再びイレッサが効くことを信じた。主治医も、「すこし大きくなっただけだから、元に戻るのもそんなにかからないでしょう」と励まして下さったことをありがたく思う。

この稿を書き終えてから、イレッサ治療再開後40日ほどの11月16日のCT検査で、イレッサを止める前の腫瘍の大きさに戻ったことがわかり、感謝でいっぱいだ。

数え切れない感謝の気持ち

肺がんになったこと、それは思いがけない不幸ではあったが、この病気になって得ることも大変多かったと思う。友人にも、病気になってから、かえって明るい幸せそうな顔になったと不思議がられる。これは肺がんという難病だということで、周囲に甘える自分を許す気持ちになったからだろう。4年前に脳梗塞で倒れ、後遺症で歩けない96歳の実母を、自分が看なければ! とがんばってきたが、母を病院に預けて過ごす自分を許すこともできる。

私が退院してきたときに、主人が「ただ座っていてもいいからお母さんが家にいるのがええわ」と呟いた言葉を聞いて、まだ勤めを続けていて疲れるであろう主人に、夕食後の片付けを頼んだり、何かと負担をかける自分を許し、掃除や洗濯もいい加減にして、のんびりと楽しいことだけをして毎日を過ごす自分も許すことができる。

3人の息子たちは、男の子だけに今まではあまりやさしい言葉をかけてくれることもなかったが、思いがけない私の病気にはかなりの衝撃を受けたようで、医師である長男と三男は病気についての知識があるだけに、本人以上に心配してくれ、やさしい励ましの言葉や、情報をくれた。次男は医学知識がないため、驚きや不安が大きかったようで、入院中、外泊で家に帰ったときには多忙な中を東京から何度も顔を見せに来てくれた。ある晩、上がりかけた階段を駆け降りてきて、「お母さん、絶対死なんといてや!」と突然私を抱きしめてくれたときには、涙が出るほど嬉しかった。肺がんにならずに急に逝ったら、このようなやさしい言葉は聞かれずじまいだったことだろう。また入院中は嫁や孫たちも何度も見舞いに来て励ましてくれた。留守宅の掃除や主人の食事の作り置きなどを嫁たちがしてくれたのもありがたかった。

友達も心から励ましてくれた。皆心配してくれていて、私の顔を見ると「元気そうでよかった!」と、涙を流して喜んでくれたりする。がん以外にも治療法のないつらい難病は沢山あるのに、私はこんなに皆に心配してもらい、やさしくしてもらえるのが申し訳ないほどである。

肺がんよありがとう


2005年1月、自宅にて。右は、30年続けている煎茶の道

多くの周囲の人たちの愛を改めて確認することができ、その愛に甘えることができたのは肺がんになったおかげなのだ。

そして美しいものや自然の生命力などに今まで以上に大きく感動するようになった。夏の間外の木陰に放っておいた蘭の鉢を、寒くなって部屋に入れると花芽が出て小さな花を咲かせる。いじらしくて涙が出そうになる。朝の散歩で、季節の移り変わりにも敏感になった。以前のように長い旅行はできないが、2月には淡路島の水仙を、4月には彦根城と石山寺の満開の桜を見ることができ、来年もこの美しい花を見られるだろうかという感慨と共に、健康な人の何倍もその美しさに感動した。

また8月にはイレッサの副作用もなく元気だったので、かねてから一度見たいと願っていた大曲の花火を見に行った。その華やかな芸術は身震いするほどで、来てよかった! と私のわがままな希望を叶えてくれた主人に感謝した。そして翌日玉川温泉に行き、岩盤浴をしている不思議に明るく元気ながん患者達にも接した。『がんサポート』の11月号に掲載された鎌田先生のルポ「玉川温泉の至福」にある「心を裸にして語り合い、孤独から脱して病気を治す気持ちになる」ことがこの温泉の癒す力なのだと私も思った。「私も治療の方法がなくなったら、ここの仲間に入ろうかな」と言うと、主人が「一緒に付き合うよ」と言ってくれた。

私はこの1年、こうして多くの人たちのやさしい励ましや、いたわりに支えられてきた。またいろいろなことに感動して、時折思わず「肺がんよありがとう」と呟きながら「幸せそうな顔」で過ごすことができた。

本当にみんなありがとうという気持ちで、また、少しでも同じ病気の人たちの力になれることを願って、長らく文章などを書いたことがないのに、『がんサポート』にこの一文を投稿することにしたのである。

1 2

同じカテゴリーの最新記事