「翼をもがれた社長」は、こうして翼を取り戻した|岩瀬俊男さん(会社経営者)

取材・文●吉田耀子
発行:2012年11月
更新:2013年8月

社長業に復帰するためシャント法を選択

シャント法発声に必要な備品。HMEカセット(左)とアドヒーシブ(右)。アドヒーシブを気管孔に貼り、さらにHMEカセットという人口鼻を取り付けるシャント法発声に必要な備品。HMEカセット(左)とアドヒーシブ(右)。アドヒーシブを気管孔に貼り、さらにHMEカセットという人口鼻を取り付ける

7月31日に入院し、手術日は8月5日と決まった。喉頭全摘には同意したものの、声を失うことは、会社経営者として致命的だ。しかも年末には、株主総会が控えている。なんとか株主総会までには声を取り戻したい、というのが、岩瀬さんの切なる願いだった。

現在、喉頭摘出者向けの発声方法としては、「電気喉頭」「食道発声」「シャント発声」の3つがある。電気喉頭は、円筒形の機械をのどに当てて口を動かし、その振動音を口腔内に伝えて共鳴させる仕組みだ。手軽に使える反面、ロボットのような声になってしまい、違和感が大きいというデメリットがある。

一方、食道発声とは、食道の中に入れた空気を逆流させて食道の粘膜を振るわせ、「ゲップ」の要領で声を出す発声法だ。これは、特殊な手術や器具を必要としない反面、発声のコツをつかむのがむずかしく、大きな声で連続的に発声できないという欠点がある。

これに対して、近年、欧米で普及が進んでいるのが、シャント発声だ。これは、気管と食道を「ヴォイスプロテーゼ」というチューブでつないで連絡路(シャント)を作り、空気を引き込んで食道の粘膜を振るわせ、声を出す方法だ。この発声法は、プロテーゼなどの交換費用がかさむものの、修得すればかなりの確率で上手に会話ができるようになる。

(社長業をやっている以上、ある程度は普通に喋れないと、仕事にならない……)

そう考え、岩瀬さんは迷わずシャント法を選んだ。シャント法の手術は、喉頭全摘後、数カ月様子を見てから行うのが一般的だが、それでは年末の株主総会に間に合わない。岩瀬さんは斎藤医師と相談し、喉頭摘出と同時にプロテーゼを装着してもらうことになった。

8月5日、喉頭の全摘手術を実施。さらに頸部リンパ節の郭清と甲状腺切除、プロテーゼの留置を行い、手術時間は13時間に及んだ。術後2週間は飲まず食わずの状態が続いたが、その後、流動食が食べられるようになり、9月4日に退院。1週間の自宅療養を経て仕事に復帰したのは、9月半ばのことだ。

シャントで声を取り戻し株主総会を乗り切る

1カ月半ぶりの職場復帰だったが、IT技術のおかげで“浦島太郎”にはならずにすんだ。入院中もパソコンを病室に持ち込み、できる範囲で仕事を続けていたためだ。メールの送受信はもちろん、社内イントラネットにログインすれば、電子決済もできる仕組みになっている。岩瀬さんはベッドの上で、IT技術の進歩がもたらした恩恵をかみしめていた。

さらに、岩瀬さんの入院は、思いがけない効果ももたらした。“社長の不在”という危機に直面して社員が奮起し、社内に自立の気風が広まったのだ。

「入院前は、何かにつけて『社長、どうしましょうか』と私に相談していた部下たちが、自分で判断してから相談に来るようになりました。仕事を任せたことで、部下たちもずいぶん成長したなあ、と感じましたね」

では、当の部下はどう感じていたのだろうか。岩瀬さんを支えてきた会社幹部の1人、花本明宏さんはこう振り返る。

「私たちには、社長が不在の間も、会社をしっかり守る責任があります。そこで、取締役が合議制をしき、重要事項については、社長とメールで連絡を取り合いながら進めるようにしていました。ある程度こちらで筋道をつけてから社長に相談し、最終的なジャッジをいただくだけで済むように工夫したので、とくに支障はなかったですね」

とはいえ、岩瀬さんの復帰に決定的な役割を果たしたのは、やはりシャント法だった。

社長には、目標に向かって社員の心を1つにまとめるだけの強力なリーダーシップが求められる。ときには檄を飛ばし、ときには部下を励ましながら、社長は社員の士気を高めていかなければならない。その意味で、社長が声を失うことは、鳥が翼をもがれるようなものだった。シャント法は岩瀬さんにとって、まさに救いの神だったといっても過言ではない。

現在、岩瀬さんは「HME」と「フリーハンズ」という2種類の人工鼻を使い分けている。人工鼻とは、のどに開けた永久気管孔をふさぐ器具のことだ。「HME」とは、上から指で押して気管孔を閉じ、発声するタイプ。一方、「フリーハンズ」は自動で弁が開閉するため、発声のたびに指で押す必要がなく、一見、健常者とほとんど見分けがつかない。

岩瀬さんは株主総会ではフリーハンズを使用。スピーチもとどこおりなくこなし、株主総会を無事に終えることができた。復帰として初めて迎えた、株主総会という晴れの舞台。それを乗り切ることは、シャント法なくしては不可能だった、と岩瀬さんは語る。

シャント法の費用補助の実現に向けて

悠声会の皆と。悠声会では毎年1回、海外研修を行っている。今年は皆でバンコクに行った悠声会の皆と。悠声会では毎年1回、海外研修を行っている。今年は皆でバンコクに行った

現在、岩瀬さんは社長業のかたわら、「悠声会」の副会長として活躍している。悠声会に入会したのは、退院直後に赤木家康医師(シャント法の実践者。本誌2012年5月号本欄参照)の講演会に出かけたのがきっかけだった。

ここで悠声会の人々と出会い、「シャントでこんなに喋れるようになるんだ」と感銘を受けた。それがきっかけで入会し、副会長に就任したのは昨年5月ごろのことだ。

現在、悠声会の会員数は約130人。岩瀬さんは悠声会の定例会のほか、がん研有明病院や東京医大八王子医療センターの患者会にも参加。大阪と福岡での悠声会発足にもかかわり、海外の患者さんとの交流や現状調査なども行っている。

「悠声会の仲間には、会社経営者も何人かいます。皆が口をそろえて言うのは、『シャント法がなければ会社を続けられなかった』ということ。食道発声だと、なかなかここまで喋れるようにはならない。現役世代で喉頭を摘出した方には、絶対にシャントがお勧めです」

バンコクのラティチャウティー病院のドクターと看護師との交流バンコクのラティチャウティー病院のドクターと看護師との交流

とはいうものの、シャント法にも問題がないわけではない。最大のネックは費用の問題だ。

プロヴォックスは3カ月に1度の交換が必要で、交換費用は1万2千円ほど。定期的に交換する人工鼻の購入費用も、毎月2万円前後に上る。

そこで、悠声会では、障害者に対する「日常生活用具給付制度」を利用して、人工鼻の購入費を助成してもらえるよう、厚労省や各自治体に陳情を繰り返している。そのかいあって、現在は東京の町田市・八王子市・豊島区や、神奈川県横浜市などを皮切りに、月額2万3100円を上限に費用を補助する動きが広まりつつある。

患者と家族が泣いて喜ぶ姿が見たい

奥さんと南九州旅行に行ったときの1枚。病気を経験してから、家族に対する感謝の気持ちが強くなった奥さんと南九州旅行に行ったときの1枚。病気を経験してから、家族に対する感謝の気持ちが強くなった

退院後、1年半のTS-1による抗がん剤治療を経て、元気を回復した岩瀬さん。闘病体験を経て、自分自身の変化を実感する場面も少なくないという。

「1つは、物事を俯瞰して見られるようになったこと。もう1つは、部下をより信頼して仕事を任せられるようになったことです。それから、家族に対する感謝の念も強くなりました。年1、2回は女房と一緒に旅行するようになり、つい先日も南九州に行ってきたばかり。今年の秋には山陰地方に連れて行く予定です。女房は『当たり前よ』と言ってますけどね」

2012年10月に開催される日本気道食道科学会では、患者を代表してシャント法の体験談を発表する予定。これからも引き続き、シャント法を世の中に広める活動を続けていきたい、と抱負を語る。

「『もしシャントと出合わなかったら、手術していなかった』という人は少なくない。でも、手術を拒めば、がんが進行して命を失ってしまいます。喉頭を摘出しても、シャントで話せるようになると思えば、早めに手術に踏み切ることもできるし、仕事も辞めなくて済む。それは大きな希望だと思います」

そう語る岩瀬さん。シャントで声を取り戻した患者さんと家族の喜びにふれることが、今の活動の支えになっているという。

「手術後、何年も喋れなかった人が、シャントで喋れるようになったときのうれしさといったら、ないそうですよ。プロヴォックスを入れて娘さんに電話したら、娘さんが泣いて喜んだという話をよく聞きます。そういう話を聞くと、本当に『よかったなあ』と思います。ボランティア冥利に尽きますよね」

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