病は決して闘うものではなく向き合うもの 急性骨髄性白血病を経験さらに乳がんに(後編)

取材・文●「がんサポート」編集部
発行:2025年3月
更新:2025年3月

山内千晶さん 福岡がん患者団体ネットワークがん・バッテン・元気隊副代表

やまうち ちあき 1970年4月生まれ。33歳の2004年1月、急性骨髄性白血病を発症。化学療法で完全寛解。同年8月退院。2006年1月遺伝子再発、同年10月骨髄再発。2007年6月造血幹細胞移植を受け退院。2016年両側に乳がんを発症、切除術を受ける。がんピアサポーター研修後、サポーターの活動場所と患者家族支援のために元気隊がんサロン「かたらんね」の立ち上げに携わる

今から21年前に急性骨髄性白血病を経験し、さらに2016年には両側に乳がんが見つかる。急性骨髄性白血病による大量化学療法や入院中の肺アスペルギルス症、再発など、次々と難しい治療選択を迫られた。

白血病から12年後に罹患した乳がんはトリプルネガティブとHER2陽性という両側性乳がん。ところがこれまでの白血病治療での大量抗がん薬による暴露が治療のネックに。2つのがんと向き合ったとき、彼女を支えたものは——。

白血病発症から12年目、2016年両側に乳がん発症

乳がん手術を控えた千晶さん

山内千晶さんは2004年1月、急性骨髄性白血病を発症。そのとき33歳、2児の母親だった。化学療法で完全寛解、その年の8月に退院。しかし、2006年10月再発、翌2007年6月造血幹細胞移植を行い退院した。

白血病治療後、抗がん薬の影響で閉経。朝起きられないほどの更年期障害が出たため、女性ホルモンを充填するカウフマン療法を受ける。そのとき乳がんのリスクが高くなると説明され、毎年乳がん検診を受ける。自分でも風呂に入ると必ず乳房をチェックしながら、徐々に日常生活を取り戻していった。

移植後退院してからは、がん関係のボランティアや就職活動を行なっていた。面接で正直に病歴を伝え、月1回の通院が必要と話すと、「うーん」、「じゃあもうちょっとゆっくりされたらどうですか」などとなり、〝再発がん患者〟のハードルの高さを実感した。

2016年1月、山内さん46歳、白血病発症から12年が経っていた。

「10年続けたカウフマン療法をやめて、別の薬に変えようとしていたときのことでした。左乳房の脇あたりが熱を持ちすごく痛くなり、肋間神経痛か骨折かと思って触ったらしこりを見つけたのです。ところが乳腺外科の予約は半年待ちの状況でした」

4月にマンモグラフィ検査の予約を入れていたため、「検査はそのときで」と言われた。しかし、嫌な予感がして血液内科の医師に、「早く乳がん検査をしてほしい」と頼み、2月初旬に前倒しできた。結果は乳がん。直径3㎝、サブタイプ分類はトリプルネガティブ。そのとき右側にも1.6㎝の腫瘍が見つかる。

医師からどうするか聞かれて、「切ってください」と即断。すぐに決めないで、よく考えるよう言われても、その決心は変わらなかった。

手術は同年3月、左側は骨や肺に近く転移の危険性を考慮して全摘、右側は腫瘍が小さいので温存術を行う。術中に左側に腋窩リンパ節転移が見つかる。1つと説明されていた右側にもう1つ腫瘍が見つかったが、サブタイプが異なるHER2陽性。両側性乳がん、左が2b期、右が2a期。

トリプルネガティブは乳がん全体の約10%と言われ、再発率が高く、若い人に多い。これまでは治療法も抗がん薬しかなかったが、最近は新規薬剤などの治療法が増えている。彼女の場合、すでに移植の前処置で大量の抗がん薬に暴露されているため、標準治療で使う一部の抗がん薬が積算量の関係で使えないという問題に直面した。

そのため分子標的薬ハーセプチンのみで治療することに。これはHER2陽性にしか効果はなく、トリプルネガティブの治療はしないことを意味する。医師が、他の大学病院ですでに行われていたDC療法(ドセタキセル+カルボプラチン)を提案した。DC療法はすでに承認されていたが、九大病院ではまだ行われていない。そのため急いで倫理委員会が開かれ、山内さんは九大でのDC療法+ハーセプチンの併用療法1例目の患者になった。そして温存した右側だけに放射線治療を行った。

「この傷はいのちの勲章だね」

乳がん手術後、いつも寄り添ってくれた夫と

彼女が全摘と即断して臨んだ手術だったが、術後その傷口を見ることができない。それを知っている看護師が、「退院前にお風呂入って。家で見るより病院で見たほうがいいよ」と勧めてくれるが勇気がでない。風呂場に一緒に行って欲しいと看護師に頼んで、一緒に恐る恐る見た。左胸は一直線の赤い筋に細かく絆創膏が貼ってあり、右胸も少し凹んではいたが、両側ともすごくきれいだった。

「自分が想像していたような醜い傷ではなかったものの、なぜか涙がポロポロ流れました。本当に今でも忘れられませんが、看護師さんが『山内さんのこの傷は命の勲章だね、頑張った勲章だね』と言ってくれて、それを聞いたら余計に涙が止まらなくなって脱衣所で10分ほど泣いてしまいましたが、その間もずっと背中をさすってくれました」

退院するときに主治医の「私の手術だから綺麗な傷のはず。この傷と上手に付き合っていくのは山内さんだからね。再建するなら相談に乗るし、不安なときに来てくれてもいいけど、全摘という山内さんの決断は間違っていないと自信を持って言える」との言葉に、自分はこの体を受け入れようと決めた。

「もちろん胸がないのを見るとつらいときもあるし、温泉などに行くと、他人に配慮して内風呂に入ったりしていますが、頑張った勲章の傷だと思うと、再建しなくていいとも思っています」

また、乳がん治療後、髪の毛が生えなかったので今もウイッグを着用している。

「変わってしまった自分の体と付き合っていくのはやはりつらいときもあります。ただ、夫が『僕だって歳を取れば容姿は変わっていくよ。千晶さんが病気で変わったのは外面だけ、内面は少しもかわらないよ』と言い続けてくれたことも大きいですね」

乳がん治療中に仕事を始める

現在、週3日学校で事務職として勤務しているが、仕事の声がかかったのはちょうど乳がんの手術が終わった頃のことだ。

「これから化学療法のため3週間に1回病院に行かなくてはならないし、具合悪くなって休むかもしれない」と正直に話した。「そのときは、そのときよ」と言われ、化学療法が始まったと同じ頃、勤め始めた。

「やっぱり体がしんどかったですね。抗がん薬の影響で心臓がダメージを受けていて息切れがひどく、3階の事務室に向かう階段を休み休み登っていました」

化学療法は仕事が休みの日に受けるにしても、放射線治療は毎日。治療後支払いなどで午後にずれ込むこともあり、いつ出勤できるかわからない。乳腺の医師が「働かないと治療代稼げんけんね」と、当時、午後2時くらいで終わっていた照射を遅い時間にできるよう放射線科に掛け合ってくれた。それで早退して放射線治療を続けられた。

仕事で迷惑をかけたくない一心で、あれもこれも無理と言っていたら、「じゃあ、やれることを言ってよ」と同僚に言われた。もっともなことと自分ができることを説明していくと、「なんだ、何でもできるじゃない」と。意思疎通ができてからは仕事もスムーズに行き始めた。ただ左手にリンパ浮腫があり、「重い物が持てない。化学療法中は匂いの強いものを食べるときは別室で」とお願いした。

そんなとき、ある先生から「乳がんの治療しながらお仕事をされているのですよね」と声をかけられた。

「はい、ご迷惑をおかけしてすみません」

「いや、そうじゃなくて、うちの学校にもがん教育で話に来る方がいるけど、社会の中で働いている山内さんのような方を見るのが子供たちにとっての一番のがん教育ですよ。だから、山内さんの存在はありがたい」

それを聞いてすごく嬉しかった。その後も白血病の元患児が入学したときや保護者ががんになったとき、治療のことや声のかけ方など、「どのように接したらいいですか」「なんていって励ましたらいいですか」などと聞かれることも多かった。山内さんにとっても、教育現場はがん体験を活かせる最適な職場だった。

右手と左手で抱えられることだけは引き受けよう

学会の患者プログラムなどで活動報告を

ところで、山内さんはどのようなきっかけで患者会と関わるようになったのか。

「入院中、地域で活動されていた骨髄バンクの団体会報で『会報の封入作業と骨髄バンクのキャンペーンでティッシュ配りをしませんか』という募集を見て、これくらいなら私にもできそうだと、退院してから始めました」

そのうち、会報に体験記を頼まれ連載で書いたら、それを読んだ人が骨髄バンクでドナー登録の説明員を養成するから受けないかといってきた。それは骨髄バンクに登録したい人に説明と登録手続きをするボランティアだが、研修が必要だった。

研修後、そのボランティアをしていたころ再発した。血液がん患者代表とも知り合いになっていたのでそのことを話したら、「患者会に再発した人がいるから話を聞きに来ない?」と誘われた。そうして患者会に顔を出すうち、運営の手伝いをするようになった。また活動が広がるにつれて知り合いも増え、当時、厚生労働省の委託事業「がんピアサポーター養成研修」を受けた患者仲間から勧められて研修も受けた。

ところが研修を受けても活動の場がない。そこで研修を受けた人たちと一緒に「地域がんサロン」を作ることにした。そのとき現在、彼女が所属している患者団体の代表が「うちでサロンを作って、やりなさいよ」と声をかけてくれたのが、元気隊がんサロン「かたらんね」スタートのきっかけだった。

「気がついたら今の状況に。九州がんセンターの倫理委員会の委員もしていますが、これまで自分からやりたいと手を挙げたことはないのです。自分が意図していないのにもかかわらず、本当に良いご縁に恵まれています」

だから、彼女は縁があったことに対しては、誠意を持って精一杯やれることはやろうと決めている。

「私は白血病になった33歳で一度死んだと思っています。だから今は〝与命〟を生きているので、右手と左手で抱えられるだけ引き受けようと思っています」

ただ、言われるままに引き受けていたため、夫から「人には2本の手しかないから、両手で持てることはしていいけど、3本目の手がいることは断りなさい」と自分の体を気遣ってくれた。娘たちも今でも母親の活動を尊敬している。もっとも今また忙しく、夫との約束は守られていないが。

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