「周りの人に助けられていた」改めて、そのことを強く感じています
3度の退院、そして再発

化学療法の効果で、腫瘍マーカーの値は徐々に下がっていった。8クールの治療を終え、2001年7月に退院。だが、わずか3カ月で再発してしまう。
「あとで知ったのですが、腫瘍マーカーが一定の値まで下がっても、がんを叩きのめすためには、追加で化学療法を行う必要があったのです。でも、J病院は絨毛がんの経験がなかったので、追加の治療を少ししか行わなかった。それで、がんが体内に残ってしまったんでしょうね」
このまま手探りで治療を続けても、同じことを繰り返すだけだ。それなら、専門医のいる病院に転院したほうがいい―― 。 藤居さんはインターネットで探し当てた絨毛がんの専門医2人に電話で直接相談し、家から最も近い、東京医科大学病院の高山医師を訪ねることにした。主治医から渡された紹介状を見て、藤居さんは目を疑った。そこには、「絨毛がん」という病名が書いてあったのだ。
「自分ががんだと知ったのは、このときが初めてです。ただ、不思議と絶望感はなかったです。『がん=死』というイメージがなかったせいか、『大丈夫、自分は治る』と思っていました」
10月、2度目の化学療法を行うため、東京医科大学病院に入院。画像検査では病巣は見つからなかったが、腫瘍マーカーは上昇していた。翌月からEMA-CO療法*がスタート。16時間に及ぶ点滴。利尿剤を投与され、猛烈な尿意と脳貧血にも苦しめられた。
治療は無事終わり、2002年2月に退院。ところが、ホッとしたのもつかの間、退院の2カ月後に再々発してしまう。藤居さんは東京医科大学病院に再入院し、7月からEMA-EP療法*を行うことになった。このときの心境を、藤居さんはこう振り返る。
「それまでの抗がん薬治療で、体の中はもうボロボロでした。副作用で白血球と血小板が減るたびに、治療を延期しなければならない。計画通りに治療が進まないもどかしさと焦りで、心が折れそうでした」
翌2003年1月、9クールで治療を終了。ところが、半年もすると、がんは再び勢いを盛り返した。3回目の再発が起こったのは、その年の7月のことだ。
「退院から再発までの期間が、大体3カ月です。退院と再発を繰り返していたので、血液検査の結果を聞くのが怖かった。腫瘍マーカーが『上がった』と言われると、人並みに泣いて……。
『どうして私ばかり、何回も再発するんだろう』と、割り切れない思いで一杯でした」
*EMA-CO療法=ベプシドまたはラステット(一般名エトポシド)+メソトレキセート+コスメゲン+エドキンサン+オンコビン(一般名ビンクリスチン)
*EMA-EP療法=ベプシドまたはラステット+メソトレキセート+コスメゲン+ブリブラチン(一般名シスプラチン)
闘病を通じて得たかけがえのない友人

主治医の定年退職にともない、4回目の治療は、やはり絨毛がんの専門医である千葉大学医学部附属病院の松井医師のもとで受けることになった。9月からFA療法*を開始。松井医師は、たとえ副作用で白血球が減少しても、「薬剤は使わず自力での回復を待つ」という方針だったので、治療が予定より遅れることも珍しくなかった。
「このころには入院生活にも慣れていたので、もう、治療の遅れにいらだちを感じることはなかったですね。千葉大学医学部附属病院には、松井先生を頼って全国から絨毛がんの方が集まって来ます。同じ病気の患者さんと、互いに相談やアドバイスをしながら、支え合っていました。外出や外泊もしながら、割と元気に入院生活を楽しんでいましたね」
治療中は副作用で、頭皮一面に吹き出物が出た。頭が赤く膿み、枕に当たると痛いので、氷枕に水だけを入れてもらい、痛みを防いだ。8クール目からMEA療法*に切り替え、腫瘍マーカーが下がったところで、追加治療を行った。晴れて退院の日を迎えたのは10月のことだ。
近年、絨毛がんの抗がん薬治療は飛躍的に進歩し、治療成績もめざましく向上している。藤居さんも、ここ8年間は再発することなく、半年に1回の定期検査を続けているという(松井医師の異動に伴い、現在は東京女子医科大学病院の外来に通っている)。
「病気になって一番よかったことは、人脈が増えたことです。人は同じ境遇にならないと、わかりあえないところがありますよね。絨毛がんの患者さんとは、年代を問わず親しくなれるんです。千葉大学医学部附属病院のときの患者仲間とは、半年に1回、皆で同じ日に外来の予約をとって食事をしています。先生もそれをよくご存じで、『今日はどこでランチしてきたの?』と聞かれるんですよ」
*FA療法=5-FU(一般名フルオロウラシル)+コスメゲン *MEA療法=メソトレキセート+ベプシドまたはラステット+コスメゲン
重い障害を抱えた娘とともに
松井医師からうれしい知らせがあった。退院して1年後「妊娠OK」のゴーサインが出たのだ。
松井医師によれば、絨毛がんの治療後に、妊娠・出産した患者さんもいるという。退院後の経過を見て、再発がなければ妊娠してもよい―― 。その言葉に藤居さんは希望を見出したが、夫はためらいを見せた。妊娠することで、また病気になるのではないかという不安があったためだ。
がん治療のため、藤居さんが東京で治療を受けているあいだ、娘は仙台の日赤病院で療育を受けていた。夫は週末ごとに、福島と仙台・東京を往復し、妻と娘を見舞っていた。
「あとで主人に聞くと、『福島に単身赴任していたときが一番つらかった』と言っていました。仙台にいる子どもの面倒も見なければならず、互いの両親からは病状について質問される。それでいて、私には病気のことを知らせないように気遣っていたわけですから……」
幸い、娘も同じ病院に転院する手はずが整い、藤居さんは小児科病棟を訪ねて、わが子の成長を見守ることができるようになった。
「自分の治療に専念できたのは、娘をみてくれた夫や姉夫婦、母のおかげです。それから、看護師さんや先生も娘を可愛がって下さって……。どの病院でもスタッフの方々によくしていただいて、本当にありがたかったですね」
固く結ばれた夫婦の絆

ただ、2人目の子どもをこの手に抱く、という夢は叶わなかった。治療後に妊娠したものの、残念ながら流産してしまったのだ。
その後、40歳で早期閉経を迎えたため、子作りは断念せざるをえなかった。妊娠中毒症、絨毛がん、わが子が重い障害を負って生まれたこと―― 。
「誰でも当たり前にできるもの」と思っていた妊娠・出産は、藤居さんにとっては試練の連続だった。それを乗り越えるための支えとなったものは、「周りの人たちの存在」だった、と藤居さんは振り返る。
インタビューのあいだ、ずっとそばで見守っていた姉の佐恵子さんが、最後にこう言葉を添えた。
「たび重なる試練を乗り越えたことで、妹夫婦の絆はとても強くなりました。娘の将来のことも含めて、不安はたくさんあると思いますが、この2人ならきっと乗り越えて行けるのではないか。
妹も旦那様も本当に強くなったな、と思います。病気をしなかったら、そうはならなかったかもしれませんね」
1998年 | 11月 | 1回目の妊娠・流産 |
2000年 | 2月 | 2回目の妊娠 |
8月 | 緊急入院。「妊娠中毒症」と診断 | |
10月 | 東京のJ病院呼吸器内科に転院。絨毛がんと診断 | |
11月 | MAC療法開始(~2001年7月) | |
2001年 | 8月 | 再発 |
10月 | 東京医科大学病院転院 | |
11月 | EMA/CO療法開始(~2002年2月) | |
2002年 | 4月 | 2回目の再発 |
6月 | 東京医科大学病院再入院。EMA/EP療法開始 (2002年7月~2003年1月) | |
2003年 | 1月 | 退院 |
7月 | 3回目の再発 | |
9月 | 千葉大学医学部附属病院入院 FA療法のあと、MEA療法へ | |
2004年 | 10月 | 治療終了。退院 |
現在 治療終了後8年経過。半年に1回の経過観察中 |
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