無理はしない。できることからする。子宮頸がんを乗り越えよう! 子宮頸がんの手術から復帰した女優・古村比呂さん

取材・文●「がんサポート」編集部
撮影●向井 渉
発行:2013年9月
更新:2018年10月

3人の息子に励まされ

「検査が間違っていると思いました。すごく淡々と、こんなに簡単に言われるのかと、納得できなかった。体は何でもなかったから……」

動揺する心を抑えて、そのままナミビアでの仕事をこなした。年末ぎりぎりに帰国。気持ちの整理がつかないまま年を越して、精密検査のために紹介された大きな病院を訪れたのが、1月5日だった。

「先生に『これががんです』と写真を見せられました。これががんか……。見事に膿んでいる。他の部分との違いが私にもわかりました。初めて受け入れました」

医師は「初期と考えられます」と付け加えた。レーザーを使った円錐切除という治療方法を説明された。

「それで治るなら早く見つかってよかったなと思いました。レーザーで簡単だと言われました」

古村さんは26歳で結婚、3人の男の子に恵まれたが、43歳のときに3年間の別居を経て離婚した。今は、子どもたちと暮らしている。はたち前後の息子3人はよく話をする「共同生活者」だという。がんのことは早くから伝えた。

ナミビアに行く前に「ちょっと引っかかってる。でも大丈夫だよ」と明るく言った。息子たちも気楽に受け止めていた。「大丈夫じゃない? 元気だし」「あ、手術するんだ。でもすぐに退院でしょ」

前向きな言葉に古村さんも、「悪いものを取ってまた元気に暮らそう」と勇気を得たという。

2月2日、古村さんは円錐切除術を受けた。30分ほどで終わった。3泊4日の入院で、がんの恐怖から逃れられる、と思っていた。

これで終わりのはずが……

2月20日、経過検診と円錐切除で取った組織の検査結果を聞くために病院をひとりで再訪した。がんは治ったと思っていた古村さんに掛けられたのは、厳しい言葉だった。

「残念ながら、浸潤していました。Ⅰb1期というステージで、子宮の全摘出が必要です」

「そのときは本当にびっくりしました。レーザーで全部終わったと思っていたから。何が起こっているのか、不安を打ち消すことしかできなかった。聞く言葉をきちんと受け入れられていない。医師は医学的なことを含めて現実的なことを説明したのでしょうが、どうにかいいほうにいいほうに考えを持っていかないと自分が保てませんでした。誰か一緒にいたら、悲しんで当然なポジションにいられたんだろうけど、ひとりだったから自分がしっかりしなければということばかりに神経がいきました」

そもそも、子宮頸がんという病気を知らなかった。がんは遺伝的なものと思っていた。がんを患った近親者はいなかった。自分の細胞ががん化するというイメージすらなかった。しかし、受け入れなければならない事実だった。

「東日本大震災が起きたことが、子どもにも自分にもいい経験になっていたと思います。何があるかわからないということを学んだ。私の病気はその1年後です。『なぜ、私が……』ではなくて、『何が起きるかわからないね』と受け止めることができました」

無理をしていた40歳代前半

古村さんは「自分に起きたこと」を受け入れて、もっとよく知ることにした。子宮頸がんの原因から始まって、発症までは数年単位の時間がかかること、免疫力の低下も大いに関係するということも知った。

思い当ることがたくさんあった。

「40歳ころから別居、離婚などいろいろなことがあって、気持ちが張り詰めていました。体の状態を振り返るより、頑張らねばと無理をしていた。ストレスもありました。でもまだ40歳というと何とか乗り切れるところもある。体に無理をお願いしていたんですね。精神的なものも大きいと思った。私の場合は、それが生理不順などに現れずにいました。子宮にずいぶん無理をかけていたんでしょうね」

全摘手術は3月13日に行われた。

手術室に向かうとき、不安はたくさんあった。大地震が起きたらどうしよう。何があるかわからない。でも、今回の闘病で悟ったことがあった。

「これもしょうがない、運命でしかない。私の気持ちや考えは、言葉よりも態度や過ごし方で子どもたちにも伝わっていたと思います」

手術は無事に終わった。リンパ節には転移していなかった。手術後の化学療法なども勧められなかった。

無理はしないできることからやる

困難な状況でも行動的になれる性格はドラマ主人公の「チョッちゃん」そのままだ。退院後に今後のことを考えた。「休んでいるばかりでは、あまりにも自分を病人と考えることになってしまうので、早く仕事がしたかった。いろいろな面で頑張れる自分がいました」

しかし、「無理はしない」が大原則というのはわかっていた。周囲からは「できることからやるのがいい」とアドバイスを受けた。

そんなころ、出版社から「体験記を書かないか」と声が掛かった。

「がんになったらひとりでは抱えきれません。私は病気と闘う勇気、気力に不安を感じたころ、ブログなどで話すことで、同じ状況にいる人がいることがわかったりしてとても助かった。伝えることは無駄じゃない。自分も恩返しができるのではないかと考えました」

もともと文章作りは好きだった。話し言葉よりも文章として自分でまとめたいという気持ちを強く持っていた。絵本を書いたこともある。半年ほどで原稿を書き上げたが、編集者が入れた「直し」に反論するほどの力の入れようだった。『がんを身籠って』(主婦と生活社)として出版された。

パートナーにも知ってもらいたい

伝えたかったことは何か。

「子宮を取らなければならない人が1人でも少なくなってほしい。子宮頸がんは、検診で予防することができます。『なぜ検診に行かなければならないの?』という意識があるようですが、検診することだけでケアしていることになるということを、みなさんに知ってほしいのです」

古村さんは、改めて言った。

「病気のことを知るにつけ、偏見が多かったり、きちんとした情報を知る機会が少ないことがわかりました。性教育を含めてです。命をつなぐことを知っていなくては。子宮頸がんの大部分は、性交渉でヒトパピローマウイルスに感染することから起こる病気なのです。なったときには女性特有の病気とされますが、原因について、受け止めてもらえるパートナーにもちゃんと知っておいてもらいたい」

自分の体験を、講演会などでも話せたらと思っている。

「興味を持ってもらいたい。正しく知ってもらいたい。検診が一番です。そして、子宮を冷やさないこと。免疫力が低下すると子宮が冷えます。私も免疫力の低下で子宮が冷えてしまったのだと思います。ホルモンバランスなども関係があります」

一番やりたいのは喜劇

古村さんが闘病を綴った著書

手術から1年以上が経ち、旅行番組の海外ロケをこなしたり、ドラマに出演したりと、芸能界での活動は闘病後とは思えないほど活発だ。でも、体への思いやりは忘れないようにしているという。

「疲れを残さない。無理をしない。『きょうのごはんは簡単なものでいい?』と息子たちに言ったりもします。自分の体にお疲れさまと言えるようになりました。これまで無理かけていた分、これからはお疲れさま、ありがとう、ですね」

「仕事の構想はいっぱいあります。役者として、一番やりたいのは喜劇です。舞台でも映像でも。笑いというのは、大切だと思う。悲しみや苦しさを知らないと人を笑わせられないと思う。私はそれを極めたい。スクリーンを通してでも、この人の歩みって面白そうと思ってもらえる役者になりたい」

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