10センチ大の腫瘍、人工肛門……俳優業は、もうできないと思いました 希少がんGISTを乗り越え、見事復帰した俳優・相島一之さん(54歳)

取材・文●吉田健城
撮影●「がんサポート」編集部
発行:2016年3月
更新:2018年11月


肛門を温存できたのは良かったが……

「あとで主治医の先生から言われたのですが、肛門を残せるかどうか、ギリギリのところだったようで、手術自体とても難しかったそうです。肛門を残せたことは、本当に良かったと思っています」

しかし、このおヘソの右側に一時的に取り付けられた人工肛門は、3カ月余り、相島さんをとことん苦しめることになる。

「退院後何よりもつらかったのは、人工肛門周辺の皮膚のかゆみです。軟膏はつけていたけれど効かないので、ひたすら我慢していました。夜の間、かゆさでずっと眠れず、朝になってしまったことも、何度かありました」

仕事でも大変な思いをした。

退院後、相島さんは人工肛門を付けた体で俳優業を行うことを避けていた。周囲に迷惑をかける気がして怖かったのだ。人工肛門を付けている間は、負担の少なそうな仕事だけを引き受けていた。

「引き受けた仕事は3つあったのですが、1つは、私が人工肛門であることを知った上でオファーが来た仕事で、病人のような立場でできたので、気持ち的に楽でした。もう1つは軽いコメディのような仕事で、これも問題なかったんですが、3つ目の渡辺謙さん主演のスペシャルドラマ『刑事一代 平塚八兵衛の昭和事件史』に出たときは、たった1行の短いセリフがうまく言えなくて、情けない思いをしました」

そのセリフは、刑事たちが話をしている際中にエキサイトして「お前が間違っている!」「貴様!」とののしり合うシーンのセリフだったので、威圧感を感じさせる怒りのこもった顔を出さなくてはいけないのだが、わかっていても、お腹に力が入らなかった。

「主演の渡辺謙さんも、気を遣って下さり『相島さん、無理をなさらないで下さい。大丈夫ですよ』と声をかけて下さるのですが、全てができなくて……。これはもう俺は仕事できないかもしれない、役者は無理かなと、本気で思いました」

ドラマ、舞台にと仕事にも復帰

一時的な人工肛門を閉鎖する手術を受けたのは11月29日のことである。

これで地獄のかゆみからは解放されたが、そのあとに来たのは、1日20回トイレに行く生活だった。しかも、初めのうちは下痢便が続いたため、紙オムツを着けなければならなかった。

「最初のうちは排便に苦労しました。1度に出るのではなく、少しずつ出てその都度お尻も拭くので、肛門が痛くなって、出血してしまうこともありました。軟便から、ちゃんと固形便が出るようになるまでには、かなり時間がかかったような気がします」

それでも年明け早々からWOWWOWの連続ドラマ「空飛ぶタイヤ」の撮影、三谷幸喜氏脚本演出による「東京サンシャインボーイズ」の再結成公演と徐々に仕事に復帰、09年5月には井上ひさ���さんの戯曲「きらめく星座~昭和オデオン堂物語~」の公演で傷痍軍人・高杉源次郎の役を演じ、各方面から絶賛された。

「井上先生の作品ですから、長いセリフがいくつもありました。病院にも台本を持ち込んで読んでいました。この公演には、主治医の先生も見に来て下さったのですが、見終わったあと『よくここまで回復されましたね。実は、相島さんが入院中、この方は、もうお芝居ができなくなるのではないかと思っていたのですよ』と言われましてね(笑)。自分でも、よくここまで来たものだと思いました」

テレビ番組の収録前に。楽屋前での相島さん

2010年から相島さんは仲間と一緒にブルースロックのバンド
「相島一之&THE BLUES JUMPERS」を結成、ライブ活動を行っている

病気を機に新たなことへの挑戦

「病気になって、色んなことが変わりました」と相島さんは語る。その1つが、10年から始めた音楽活動だ。相島さんは仲間とブルースロックのバンド、「相島一之&THE BLUES JUMPERS」を結成、ライブ活動を行うようになった。

さらに12年からは、立川志らく師匠と組んで落語にも挑戦している。

「術後1年ほど経って、自分の中で『何かやってやろう。新しいことに挑戦していこう』という気分になったんでしょうね。死んでしまうかもしれない……それだったら、やっといたほうがいいな、と」

私生活では、2人の子どもにも恵まれた。

「病気の真っただ中では、子どもなんて、とても考えが及ばなかったのですが、術後しばらく経ってかみさんと話をして、欲しいねと。主治医の先生にも相談をしまして、幸運なことに2人の子どもを授かりました。今だったら、たとえ俳優業がダメになったとしても、どうにか子どもだけは守っていけるように頑張ろうと思えますけど、以前の僕だったら、そうは考えられなかった。病気になったことで、ある意味、強くなったんじゃないかと思います」

そして、どんな時も笑顔で接してくれた奥さんには、本当に頭が上がらないと話す。

「入院中、恐らく彼女は1人の時に泣いたりしていたのだと思います。けれど、僕の前では一切そういうものを見せず、いつも笑って過ごしてくれました。『ああ、かみさんが1人いれば、もう俺は何もいらない。かみさんさえいればいい』と、本当にそう思ったんです。今振り返ってみれば、彼女がいたから、生きられたんだと思います。自分1人だったら、死んではいないだろうけど、酒に逃げて自滅していたんじゃないですか。弱い人間ですから」

病気で失ったものは確かにあった。しかし、それ以上に気づかされたことも大きかった。

「50代半ばですけど、新しいことへの挑戦はしていこうと思っています」

そう最後に、相島さんは力強く語ってくれた。

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