精巣腫瘍後にJリーガーとなった元サッカー選手の宇留野純さん(37歳) 「がんを経験したことで、J1のピッチに立つ道が開けたんです」
諦めきれなかったサッカーへの道

サッカーをどうしても諦めきれない――。宇留野さんは、何か良い方法はないか、チームドクターに相談した。すると、セカンドオピニオンを受けることを助言され、最終的に、都内のがん専門病院を受診することになった。応対した医師は、宇留野さんが持参した資料に目を通し、さらに現在置かれた状況と希望を聞いた上で、見解をこう伝えた。
「現時点で転移がないのでしたら、腫瘍マーカーなどをマメにチェックしながら経過観察していくのも1つの選択肢です。今すぐシスプラチンのような強い薬で治療するのは、かえってリスクが高いように思います」
宇留野さんにとって、この上ない朗報だった。すぐに、この見解を手術を受けた病院に持ち帰って話すと、担当医も納得。宇留野さんは月に1度、病院で各種検査を受けながら転移の有無を確認した上で、これまで通りサッカーを続けられることになった。
JFLの新シーズンを迎えるにあたり、彼が心に誓ったのは、毎試合ありったけのものを出し切って悔いが残らないようにしよう、ということだったという。
「いつ転移するかわからない。そのとき、そのときを思いっきりプレーするだけ。そして1年後、Jリーグでプレーできるように結果を残そう。そこに全てを捧げようという思いで取り組みました」
今全力を出さないとあとで後悔するという気持ちでいつもプレーしていた宇留野さん。攻守両面でいい働きを見せることが多くなり、複数のJリーグのチームが、彼の獲得を検討するようになった。
不安に押しつぶされそうな日々
活躍を続ける宇留野さんだったが、その一方で、精神的に万全とは言えない日々が続いた。いつ転移するのか、不安や怖さから、体調の変化に過敏になっていたのだ。
「ちょっと風邪を引いただけで不安になり、大きな病院に行って検査を受けていました。サッカー選手をしていれば、どこか痛いのは当たり前ですが、そのころは、全てがんの転移と結びつけて考えてしまい、脳の検査とか、骨の検査とか、すぐに病院に行って診てもらっていました。
がんに効くと宣伝している漢方薬やサプリメントも片っ端から試していて、1日に飲む量もすごく多くなっていって、これを飲まないと転移してしまうんじゃないかと不安と葛藤する中、ある日、何か押しつぶされそうになってしまったんです。そ��で、術後半年くらいたったころに、全て飲むのを止めました。結局、それを飲み続けていたとしても、気持ちが和らぐことがないし、これを一生続けていくのは無理だな、と。そのとき初めて、転移したらしたでしょうがない、と思えるようになりました」
シーズン後半になっても宇留野さんの活躍は続き、05年末にはリーグベストイレブンを受賞。所属するHonda FCにも、ヴァンフォーレ甲府などいくつかのJリーグチームから宇留野さんを獲得したい旨のオファーが届いた。それはクラブから彼自身にも伝えられ、オフには、Honda FCに残るかJリーグのチームでプレーするか、決断しないといけなくなった。
「そのとき、僕は26歳。実は26歳ってJリーガーの平均引退年齢でもあるんです。なので、その年齢でJリーグにチャレンジするのは、とても珍しいと思います。逆にがんになっていなかったら、チャレンジしていなかったかもしれません」
当然、Honda FCに留まり、プレーする道もあった。社員選手でいれば、例えがんで転移しても、待遇面でも保障され、将来的にも安定する。それでもそこに、もう迷いはなかった。
まさかの再発か
ところがシーズン終盤に思わぬ事態に直面する。毎月受けていた検診で、腫瘍マーカーの上昇が見られたのだ。
「それまで正常範囲内だった腫瘍マーカーの数値が、10月、11月と2回続けて上がったんです」
医師は転移の可能性が高いとして、再び宇留野さんに抗がん薬治療を勧めた。宇留野さん自身も、転移が見つかったらその時点でしょうがないと、抗がん薬投与を受けるつもりでいた。入院の手続きも済ませ、サッカー人生に終止符を打とうと1度は決めた、が……。
「やっぱり諦められない自分がいたんです」
わずかな望みを持って、再び宇留野さんは、以前セカンドオピニオンを受けた都内のがん専門病院を受診した。
「もし本当に転移しているのなら、腫瘍マーカーの上がり幅はこんなわずかなものではなく、もっと上がります。この数値では、転移しているかどうかはわかりません。むしろ1年間、サッカーを続けて頑張って来られたのだから、今ここでシスプラチンによる治療を行うのは、リスクが高過ぎます」
宇留野さんの夢への扉が開いた瞬間だった。
そしてその後は、「1試合でもいいからJリーグのピッチに立ちたい」という想いの実現に向けて、前進していくことになった。
病気があったからこそチャレンジできた
2006年のJ1開幕戦。悲願のJ1昇格を果たしたヴァンフォーレ甲府対清水エスパルス戦。その記念すべき初戦のピッチに、宇留野さんの姿はあった。
「スタメンのピッチに立てて、本当に嬉しかったですね。何か1年間の想いがフィードバックしてきて、込み上げてくるものがありました」
ヴァンフォーレ甲府には3シーズン所属し、退団後の2009年からはJ2のロアッソ熊本でプレー。その後は、タイのクラブを渡り歩きながらサッカー選手としてはかなり高齢の36歳までピッチに立ち続けた。
「タイのクラブに渡ったのが32歳のとき。年齢的にはもう引退してもいい時期ではあったんだけど、なぜかサッカーを止めるという気持ちにはならなかったんです。止められなかった。今までの自分を振り返ってみたとき、〝がん〟という病気があったからこそサッカーを続けてこられたと思って……。何か変な『使命感』ではないですけれど、そういう気持ちになって、止めることができませんでした」
タイに渡ってからも3つのチームに所属し、2016年に入り、現役引退を決意。引退後は、2006年ヴァンフォーレ甲府の記念すべきクラブ史上初のJ1開幕戦にスタメンとして共に出場した仲間、長谷川太郎氏と「TRE2030」という会社を設立。主にストライカー育成を念頭に置いたスクールを展開し、活動している。
「病気をしていなかったら今の自分はいない。プロになってプレーしていたかと言うと、多分それはないと思います」
チャレンジしていく気持ちになったのは、病気がきっかけだった――。
宇留野さんはそう力強く断言する。
がんは経験した人の度量によってヒール(悪役)にもヒーローにもなる。宇留野さんの場合、最強のヒーローとなって、最高のサッカー人生を歩む道筋をつけてくれたようだ。


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