総理就任直後にわかったがん。だからこそ、どうすべきか迷いました 前立腺がんを克服した元首相・森喜朗さん

取材・文:吉田健城
撮影:向井 渉
発行:2012年5月
更新:2019年7月

森派の総会でがんを公表

森元首相が当時の葛藤する心の内を吐露した

治療の経過はどうだったのだろう?

「その後もホルモン療法をやりながら見ていたんです。ところがPSAの数値が10ng/㎖台の半ばより下に下がらなくなり、上昇に転じて38ng/㎖まで上がったので、ホルモン療法だけでは無理ということになったんです。そのため2002年7月に入院して、摘出手術を受けることにしました」

永田町は「風邪ががんに、入院が危篤」になる世界である。首相経験者で最大派閥の領袖である森さんが1カ月入院することになると、さまざまな憶測や風評が飛び交うことになる。それを封じ込めるため、森さんは森派の総会(清和会)で手術を受けることを公表した。

総会にはマスコミも多数取材に来ているので、公表した当日、森さんのがんは早くもニュースや記事になった。

すると予期せぬことが起きた。その日の夜から自宅や事務所に、新しい治療法があることを知らせる電話が、いくつもかかってきたのだ。

「1番早く電話をかけてくださったのはアフラックの日本法人創業者である大竹美喜さんでした。彼はアメリカで小線源治療を受けた経験を話し『入院の必要がなく、朝、病院に行けば昼過ぎには治療が終わるので、アメリカに3日間行きましょう。私も一緒についていきますから』って言うんですよ。『そんな簡単にできる治療なんてあるの?』って聞いたら『あります。日本ではまだ認可されていないけど(当時)、アメリカでは普及していて、私自身も受けていますから』と言うので、いい話を聞かせてもらったと思いました」

ほかにも重粒子線、IMRT(強度変調放射線治療)などを勧める人もいて、森さんはいろいろな治療法があることを知った。そんな中で、1番魅かれたのは、内視鏡による手術( 腹腔鏡下前立腺摘除術)だった。

「1週間の入院で済むというし、開腹手術に比べて体に与えるダメージが少ない点も魅力でした。私の場合、1番困るのは肉が落ちて年寄りっぽく見えることなんです。腹腔鏡下手術ならその心配も無いですから、これはいいと思いました」

治療選択に迷う

治療選択に迷う

ただ森さんは腹腔鏡下手術に心を動かされていたものの、いったん決めた開腹手術をやめて、腹腔鏡下手術にかえる踏ん切りがなかなかつかなかった。それまで親身に面倒を見てくれたT病院とK医師に申し訳ないという気持ちを払拭できなかったことや、当時は今ほど腹腔鏡下手術が行われていなかったため、意見を求めた医師の中に、腹腔鏡下手術に否定的な意見を述べる人がいたからである。そうした医師は、内視鏡��術はモニター画面を見ながら行うので高度な技術が必要であり、開腹手術に比べてがんを取り残すリスクも高いのでは、と指摘していた。

「内視鏡による手術を勧めてくれたのは中川秀直君(第2次森内閣の官房長官)だったんですが、彼が『中国訪問が終わって、夜、成田空港に着いたら、その足で、K大学病院に行ってください』と言うんですよ。行ったら医学部長や病院長が待っていて『うちでは、腹腔鏡下手術のエキスパートがいるので安全にできるし、入院も1週間ですみます』と言うんです。自信を持っていることが感じ取れたので、K大学病院で腹腔鏡下手術を受けることに決めたんです」

その後森さんはT病院のK医師の自宅に赴いて「本当に申し訳ないんですが」と頭を下げ、K大学病院で腹腔鏡下手術を受けることに決めたことを伝えた。

「そしたら『セカンドオピニオンを受けるのは当然のことです。お気になさらずに』と快く了承してくれたので、ホッとしました」

腹腔鏡下手術は無事に成功

K大学病院での腹腔鏡下手術は2002年7月、経験豊富なN医師の担当で行われ、無事終了した。

「ストレッチャーに乗せられて病室から手術室に向かうときは、誰かわからないように死体のように顔に布を被せられて運ばれたんですよ(笑)。手術室に入ったあと、すぐに麻酔を打たれたんですが、気がついたのは午後4時ごろだったと思います。『手術はまだやっていないんですか?』って聞いたら『もう終わりました。あまりよく寝ておられるので、そのままにしておいたんです』と言われました(笑)」

術後の経過は順調で、森さんは予定通り1週間入院しただけで退院することができた。

その後は3カ月に1度、ホルモン注射を受けながらPSAマーカーをチェックしているが、再発の兆候が見られないまま現在に至っている。

「PSA値は0.2~0.3ng/㎖のことが多く、安定した状態が続いています。ただ私の家はがんの多い家系です。ほかのがんがいつ出るかわかりませんから、油断はしていません」

前立腺がんの啓発は奥さんをターゲットに

前立腺がんの啓発は奥さんをターゲットに

患者数が増えている前立腺がん。本人はもとより、奥さんたちへの啓発が今後前立腺がんの早期発見へのキーになってくると森さんは話す

最後に前立腺がんの経験者として政治家の立場から、このがんの検診受診者を増やすにはどのような視点が必要か尋ねると、選挙民の事情によく通じた政治家らしいユニークな答えが返ってきた。

「奥さま方への啓発が必要だと思っています。僕は後援者のご婦人に『ご主人が就寝後トイレに2回以上行くようになったり、小用を足したあとトイレのまわりが汚れるようになったりしたら切れが悪いのですから、前立腺肥大などの病気の可能性があるからPSA検査をお受けになってください』と言っているんです。どこの家でもトイレの掃除をするのはたいてい奥さんですからね。男性は、『もしかしたら前立腺の病気かもしれない』と思っても、怖いし、場所が場所ですから、いざとなると検査に行かない人が多いんです。でも、奥さんがその兆候に気がついて『パパ、前立腺の検査を受けて』って言えば、行くきっかけになるでしょう。健康診断ではPSA検査は通常の検査項目ではなくオプションになっていることが多くて、意外と検査されていないんです。『今度の健康診断のとき、それを加えてね』と奥さんが旦那さんに言うだけでも、全然違うと思いますよ」

正面から攻めず搦め手からいく──老練な政治家らしい現実を見据えた発想である。永田町における森さんの影響力は依然大きなものがある。前立腺がんは患者数が右肩上がりで増えており、2020年までに患者数は7万8千人になると予測されている。幅広い啓発活動が必要な段階にきている前立腺がん。今後は政治的なアプローチも、森さんに期待したい。


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