進行直腸がんと 闘わない という生き方を選択した名脇役・入川保則さん がんに最後のひと花を咲かせてもらった気持ちです
自分の葬式をプロデュース
その後、入川さんは神奈川県厚木市にある総合病院で長い付き合いのある医師の診察を受けるようになったが、ほどなく肝臓に影ができていることがわかった。
「昔なら3カ月の命でしたが、現在の医療なら8月までは持つと思います」
医師からそう告げられた入川さんは、いつ最期を迎えてもいいように、自分自身の葬儀の手配をした。
3度目の奥さん(元女優のホーン・ユキさん)と7年前に離婚したあと、入川さんはアパートで1人暮らしをしている。5人のお子さんたちも、それぞれに仕事と家庭を持っているので、自分の葬式のことで面倒をかけたくなかったのだ。
「数年前に近所の人の葬儀に出たとき、仕切った葬儀屋さんを気に入っていたので、その人と式の段取りを相談し、料金も決めました。死ぬときぐらいは自分でプロデュースしたいと思ったので、お坊さんに読経に来てもらうのもやめて、形式にこだわらないものにしました」
入川さんが当初考えた案は、家族を中心に10数人程度が集まる密葬にし、式も般若心経と入川さんのメッセージをあらかじめ録音して会場で流し、30分で終わるという極めてシンプルなものだった。
「坊さんなども呼ばないと言ったら、葬儀屋さんが料金を10万円まけてくれました。本当はお焼香も要らないと言ったんだけど、葬儀屋さんが『般若心経とメッセージを流すだけでは間が持ちません。お線香とかお焼香台はみんなタダにしますから、それぐらいはやってください』と言うので、やることにしました(笑)」
ごく内輪だけでやる葬儀にしたのは、自分の葬儀のために、関係者や知人を煩わせたくないという思いが強かったからだ。
「ぼくは、人と人の付き合いは死んだ瞬間に切れると考えているほうなので、友人の参列は不要だと思っています。そのことは友人たちにも、伝えてあります」
葬式で流す般若心経とメッセージを収録
式次第が決まると入川さんは、自分の葬式で流す般若心経とメッセージの収録を行った。
「般若心経のほうは事務所の社長が音楽スタジオを1時間半借りてくれたので、そこで録音しました。5人のお坊さんによる合唱で、エコー入りです(笑)。メッセージのほうは、まず、『本日は私の葬儀にご参列くださり、まことに有難うございました』とお礼を言ったあと、生命科学者の柳澤桂子さんが般若心経の真髄を解説した本から少し頂戴させていただいて、最後の挨拶を10分間ぐらい入れました」
色即是空、空即是色の般若心経に心惹かれる理由を、入川さんは次のように語る。
「般若心経は若いころから好きで『すべては空であり、無である』というところがたまらなくいいんです。あれはお経ですが、仏教くさいところがないんですね。ぼくは宇宙工学に関する本も読むんですが、むしろそれに通ずるものがある。宇宙的視野で見ると、宇宙も地球も人も、たまたま今の形をとっているだけで、本質は塵、芥が集まっているに過ぎない。死というのも、体を形作っていた細胞が塵、芥に戻るだけの話です」
突然やってきた大輪の最後のひと花

葬式の手配を済ませた入川さんは、死を受け入れ、苦しまずに最期の日を迎えることだけを望んでいたが、3月初旬、事態は思わぬ方向に転がりだした。
3月2日にデイリースポーツの取材を受け、現状をありのままに語ったところ、翌日大きな記事が掲載されたのだ。
そのインパクトは大きかった。まずワイドショーへの出演が決まり、さらに記者会見もやることになった。
「事務所の社長から記者会見をやると言われたときは、そんなことをしても、どこも来てくれないんじゃないかと思っていました。それが蓋を開けてみると何10社も来てくれたので嬉しくて仕方がなかったです。役者というのは、大きく取り上げてもらえるのなら、死んでもいいと思う商売ですから。がんに最後のひと花を咲かせてもらった気持ちです」
それを機に映画の主演、「水戸黄門」のゲスト出演、本の出版、24時間テレビへの出演、1日だけの舞台出演など、忙しさに拍車がかかった。
周囲が最も心配したのは映画「ビターコーヒーライフ」に主演したときだった。この映画で、入川さんはがんに冒された喫茶店のマスターに扮しているが、撮影は今年9月、福島県白河市の喫茶店を借り切って10日間ほど、ぶっとうしで行われることになったため、体がもつか懸念された。
入川さんは「途中で死んだらドキュメンタリーにすればいい」といって撮影に臨んだが、結果的にそのようなことにはならず、撮影は無事クランクアップを迎えた。
「体調を維持できたのは、事務所が栄養補助に詳しい薬剤師の平井陽子さんをぼくに付けてくれたことが大きかったですね。今も平井さんのアドバイスで天然素材のビタミン剤などを飲んでいます」


左は共演した前川清さんと一緒に。「ビターコーヒーライフ」は2012年5月12日、ヒューマントラストシネマ渋谷より全国公開予定
「もう十分です」

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こうした多忙なスケジュールの中で、がんの進行はどうなっていたのだろう?
結論から言えば無治療にもかかわらず、がんの進行は予想より遅かった。そのため入川さんは、次の年を迎えられる可能性が高くなっている。
肝臓の機能が弱くなっているので、それを改善する薬が欠かせなくなっているが、深刻なレベルになっているわけではない。これなら、さらに生存期間が延びるのではないかという期待をいだいてしまうが、ご本人には、その気がまったくない。
「記者会見で余命半年と言っていながら、死ねなかったときのほうが怖いです。稀代の詐欺師になってしまう。がんのお陰で最後のひと花を咲かせることができたので、もう十分です」
禅宗には大死大活や寂滅現前という言葉がある。自己がなくなることで、同時に自己が生まれるという意味だが、入川さんの「あと半年」になってからの活躍は、それを如実に体現したものと言っていい。長く人々の脳裏に記憶されることになるだろう。
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