台湾の妹と白血球の型が一致したとき、これで生きられると思いました 急性骨髄性白血病になり、抗がん剤治療と骨髄移植を経験した 元プロ野球選手・大豊泰昭さん
心配する両親に病気を隠し通すために
もう1つ頭を悩ませたのが、両親に知られないようにすることだった。
大豊さんは親孝行を第1に置く台湾の伝統的な価値観を大切にしていた。そのため自分が日本で野球選手として成功し、経済的に豊かになってからは、台湾の田舎で農家をしている両親を呼び寄せて楽な暮らしをさせたいという気持ちが強かった。
しかし朝から晩まで農耕に明け暮れる生活に誇りを待つ両親は、台湾中部の山間にある南投県埔里鎮にとどまり、けっして息子の誘いに応じようとしなかった。
大豊さんはそんな両親を何よりも尊敬していた。
白血病の再発がわかったとき、1番気がかりだったのは母・頼彩鳳さんに知られることだった。彩鳳さんは心配性で、白血病の再発がわかれば大きなショックを受けて体を壊す心配があった。
「だから母には初発のときも、知らせませんでした。再発のときは長期入院になることがわかっていたので、日本に来られたら困ると思い、こちらから電話をして『1カ月半くらい、キューバとドミニカの野球選手のスカウトに行く』といっておきました。『おまえは台湾の担当じゃなかったのか』と言うのでドキッとしたけど『台湾にいい選手がいないから行くんだよ』と言ったら納得していました」
その後も大豊さんは何度か彩鳳さんに電話を入れ、英語で国際電話のオペレーターとやり取りしているような偽装をして中南米にいることを信じ込ませていた。3人の弟妹の結束も固く、みんなが口裏を合わせてくれたので、退院まで病気のことは両親には知られずに済んだ。
生着が確認されたあと、患者はGVHD(移植片対宿主病)という難敵と直面することになる。これは血液提供者の免疫機構が受血者の体の組織を外敵と認識して攻撃することによって生じる病変のことである。幸運なことに、大豊さんはこれがほとんど出なかった。
「GVHDは新しい血液が活発に免疫力を発揮していることを意味するので、少し出たほうがいいんです。大量に出るのは困るけど、まったく出ないのもいいことではないとお医者さんは顔を曇らせていました」
しかし、毎月行う血液検査では、100パーセントの細胞が妹さんのものであるという結果が出ていたため、主治医もGVHDはこのままずっと出ないと判断し、2010年9月に退院することができた。
大好物のスイカもおあずけ。細菌とウイルスは怖い
「とは言っても退院後も、肝機能が弱くなっているので疲れやすくて、今でも椅子に座るとすぐに目を閉じてしまうし、筋肉もフヤフヤです。また熱い風呂に入ってもまったく熱さを��じなくなった反面、気温が低いとすごく寒く感じるようになりましたね。それでも最短で退院し社会復帰できるようになったのは、現役時代に鍛えた体の資本があったからだと思っています」
退院後、大豊さんが何よりも気をつけて入るのは感染症にかからないようにすることだ。それは退院前に1度外出を許された際、感染症にかかって高熱を出し、しばらく苦しんだ経験があるからだ。
「骨髄移植から2カ月が過ぎた8月20日ごろに、店にぜひ会いたいというお客さんがいるので、病院の許可をとって店に行き、写真だけ撮って帰ったんだけど、そのあと40度を超す熱が出て治療にしばらくかかりました。今まで、気にも留めていなかった細菌やウイルスがどれほど怖いものかわかりました。それ以来、細菌やウイルスには気をつけています。私はスイカを2つに割って丸ごと1つ食べるくらい大好きなんですが、お医者さんから退院後1年間は食べないように言われているので、今はぐっとこらえています」
元気をくれた宝塚の長女と中日のチェン

入院中、心の支えになったことについて伺うと、一瞬目を宙に漂わせてからおもむろに口を開いた。
「私は2004年に家内を心筋梗塞で亡くしているのですが、信頼できる人がいて、その方が店の切り盛りと入院中の雑事をやってくれたので大変助かりました。2人の娘も大変心配してくれました。上の娘は宝塚歌劇団の学校を卒業して『ひろ香祐(ひろかゆう)』の芸名で、男役としてステージに立っているのですが、遠く離れたところで頑張っているので、心配をかけたくなくて、最初は病気のことを黙っていました。ですが正直に話すと、『お母さんがいないのに、お父さんまでいなくなったらダメだから』と励ましてくれ、病気のこともよく理解してくれました。今は、娘から『今度はあの役をやる、今はこの役の稽古に入っている』と近況を聞くことが大変励みになっています」
また、野球人である大豊さんにとって今やセ・リーグ屈指のサウスポーにのし上がったチェン・ウェイン(陳偉殷)投手の活躍も元気をくれる大きな要素になったようだ。チェン投手は大豊さんが台湾でスカウトした逸材で、現在も後見人的な立場にある。
「チェンは何度もお見舞いに来ると言ってきましたが白血病は無菌室のガラスの中の入院ですから、来るなと言いました。それよりもマウンドで結果を出すのが最高の見舞いになるからと。そしたら一昨年は防御率1位になりました。昨年も中盤から勝ち星を重ねてチームのリーグ優勝に大きな貢献をしたじゃないですか。これは最高の薬になりました」
自分を助けてくれた野球で役に立ちたい

最後に元気になったら何をやりたいか尋ねると、間髪をいれず歯切れのいい答えが帰ってきた。
「少年野球の指導です。早くノックバットを持ちたいですね。 退院後1年たったらやっていいと言われているので、体がむずむずします。台湾の田舎の農家のせがれが今こうしていい暮らしができるのは野球のおかげです。野球がなければ今ごろ鍬を持って耕作に汗を流していたでしょう。だから少しでも野球のために役に立ちたいんです」
大豊さんの言葉はどこまでも飾り気がなく率直だ。言葉の1つひとつに感情がこもっていて聞く者の心を打つ。とくに『自分は世界で1番野球のお世話になった人間だ』という思いがひしひしと伝わってくる。
大豊さんの丸太のような腕にはバットがよく似合う。この秋からは中京地区のあちこちで野球少年たちに熱心にスイングの基本を教える大豊さんの姿が見られることになるだろう。
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