「人ありてこそ、我あり」の姿勢が、がんを追い払う強運をもたらした スキルス胃がんの手術後も声優業を精力的に続ける声優界のベテラン・たてかべ和也さん

取材・文●吉田健城
撮影●向井 渉
発行:2010年9月
更新:2019年7月

輸血で切り抜けた忘年会の司会

当初の予定では、11月に『ヤッターマン』の仕事が終わったら手術をすることになっていた。しかし、手術は年明けの10年1月14日にずれ込んだ。これはたてかべさん側の都合によるものだった。

「先生から『抗がん剤が効かなくなってきたのでなるべく早く手術をしたい。12月はどうですか』と聞かれたんですが、12月18日にどうしてもやりたいことがあったので、待ってもらったんです」

やりたいことというのは忘年会の司会。常識外れと思われるかもしれないが、それまでのたてかべさんの生き方を知れば、理解できないことではない。

世の中には人付き合いがよく、何の得にもならないのに宴会の司会が決まり役になっている人や、業界内のまとめ役に推される人がいる。たてかべさんはその典型で、自分は独身なのに、業界内では結婚式の名司会者として知られていた。その一方で80年代に声優の待遇改善の機運が盛り上がった際には、役を外されるのを覚悟で運動のまとめ役を引き受けたこともあった。こうした生き方をしてきただけに、年末恒例の忘年会の司会も外せないという気持ちだったのだ。たてかべさんは、救急車で輸血製剤を運んでもらい、司会をやり通している。

「僕には家族がいないだけに、まわりの人たちはかけがえのない存在。そばにいてくれるだけで、感謝の気持ちでいっぱいです。『人ありてこそ、我あり』といつも思います」

このような人と人とのつながりをトコトン大事にする姿勢は、知らぬ間に周囲に人望の輪のようなものを作り出していたようだ。たてかべさんは手術で長期入院することになったとき、それを実感することになる。

手術に時間がかかるのはいちばんいい証拠

写真:講演先の東京純心女子大学で女子大生に囲まれて

7月1日、講演先の東京純心女子大学で女子大生に囲まれて。後列中央の男性は講演会を主催した同大学客員教授で友人のきむらゆういちさん(『あらしのよるに』などで有名な絵本作家)。たてかべさんの右隣が矢口アサミさん

大学病院に入院したあと、たてかべさんの病室には教え子である事務所の若い声優さんたちが交代で来てくれるようになった。とくに、たてかべさんの愛弟子で、講演の司会やアシスタントを務めることの多い矢口アサミさんはよく顔を出し、手術当日も朝から病院に詰めていた。

矢口さんは、堀内さん、事務所のチーフマネージャーと、3人で手術室に行くたてかべさんを��送ったという。実は、矢口さんたちは手術前、医師から「全摘をやるかどうかは開けてみないとわからない。手術は9時に始めるが、手の施しようがなければ午前中に終わります。いちばんいいケースは全摘できると判断された場合で、そのときは3時くらいまでかかります」と言われていた。たてかべさん本人はこのことを知らされていなかったそうだ。矢口さんたちは、祈るような気持ちで時計を見ていたが、1時になっても手術が終わらず、結果がいいほうに出たと思い、ホッとしたという。矢口さんたちの祈りが天に通じたのだろう。手術は3時ごろ、無事終了した。

手術後は順調だった

写真:パソコンゲーム『メタルマックス3』のナレーションを収録

パソコンゲーム『メタルマックス3』(7月29日発売)のナレーションを収録しているたてかべさん。復帰後の初仕事となった

手術にあたって、たてかべさんには心配事があったという。

「声優は腹式呼吸が基本です。手術で胃とその周辺の臓器をごっそり取ってしまったら、果たして声が出るだろうかと思ったんです。でも、それは杞憂でした。横隔膜は残っているので、声に変化はありませんでした」

手術後につらかったのは翌日から歩かされたこと。しかし、これは日がたつにつれ、苦ではなくなる。ペインケアがしっかりしていたので、激しい痛みに悩まされるようなこともなかった。食事も順調に摂取できるようになり、手術の後遺症や合併症も起きなかったので、たてかべさんは手術の2週間後の1月29日に退院できることになった。

しかし、すぐに自宅に戻ったわけではなく、北区にある総合病院に転院して、リハビリを行うことになった。そこは回復期医療に力を入れていることで知られ、居心地が大変よかった。

「手術後、大学病院で主治医の先生と退院後のことを話し合ったとき、社長が『たてかべは1人暮らしだから、退院後の食生活が心配なんです』と言ってくれたんです。そしたら、先生が『それならいい病院があります』と紹介してくれたのがその病院だったんです」

たてかべさんはここに2カ月ほど入院しているが、入院中に早くも声優としての活動を再開している。

「最初にやったのは、『メタルマックス』というパソコンゲームのナレーションでした。都内にあるスタジオに行くと子供たちがたくさん来ていました。僕がタイトルを言ったのを子供たちが復唱する形になっていたからです。久々に子供たちと一緒に過ごしたので体が若返った気がしました」

これまでの陰徳が強運を引き寄せた

写真:イラスト入りの寄せ書き

イラスト入りの寄せ書きは、すべて入院中のたてかべさんに贈られたもの

入院中、いちばん励みになったのは、大勢の人が見舞いに来てくれたことだ。

たてかべさんは、それを友人に恵まれたからだと語るが、実際は、たてかべさんのほうに引き寄せる要素があるからだ。それは見舞い客との接し方を知ると見えてくる。たてかべさんは見舞い客に対し、ひたすら聞き役に回り、話を遮ることがない。聞き上手が話し上手というが、まさにそれなのである。

たてかべさんに「がんになって見えてきたものは何か」と問うと、ユニークな答えが返ってきた。

「いちばん感じるのは自分の運のよさですかね。人生を春夏秋冬にたとえると、僕は冬の時期になってからがんにかかったけれど、もし、これが夏や秋の時期だったら大変だったでしょうね。若い人には、本当にがんには気をつけてほしい。僕はお金の面でもついているんです。実は、昨年3月にがん保険を解約しようと思ったのですが、放っておいたら、がんが見つかった。おかげでがん保険の恩恵を受けることができました。それに、後期高齢者(75歳以上)になった途端だったので、100万円かかるがんの手術費用のうち、自己負担は1割の10万円で済んだのです。26年間、ジャイアンをやらせていただいたことも大きかった。入院生活の快適さは看護師さんたちのケアに左右されます。看護師さんたちのほとんどは小さいころ、『ドラえもん』を見ているんで、ジャイアン役の声優だということで僕は看護師さんたちと親しくなり、本当によくしてもらいました」

たてかべさんは自分が、いかに運がいいかということを強調する。しかし、その運は、たてかべさんの人柄が引き寄せたものだろう。

「僕は楽天家で、物事を何でも前向きに考えるのがよかったのかもしれません。ただ、今では自分でがんに関する情報を集めるようになりましたが、入院していたとき、抗がん剤の名前も治療の経過もよくわかっていなかった。手術前に前夜祭と称し、酒を飲んだり、外出先でタバコを吸ったりして、“不謹慎”ながん患者といわれても仕方ない。がんと真剣に向かいあっている患者さんにとって、自分の体験が役に立つのか心配なんですが」

たてかべさんは、申し訳なそうにこう言った。たてかべさんのがん闘病を振り返ると、結局のところ、こうした誠実さが「自分たちが、たてかべさんのがんのことを考えなくては」とまわりの人たちを動かし、悪性のがんの治療を順調に乗り切ることができた。これこそ、たてかべさんがこれまでの人生で積んできた陰徳ではないだろうか。


1 2

同じカテゴリーの最新記事