がんでストーマになった方たちへ――真山亜子さんの『私のストーマ・泣き笑い物語』 ETナースさんが私の救いの神でした
壊疽性膿皮症が進行し、再入院に
こうした状態がしばらく続いたあと、真山さんは再入院することになった。疼痛がどんどんひどくなったうえ、壊疽性膿皮症が広がって手術で縫合したところやストーマを造設したところに大量の膿が溜まり、40度近い熱が続くようになっていたためだ。化膿はストーマの導管の通り道である腹壁の内側のほうにまで広がっており、開腹手術しなければならないところまで悪化していた。
「この手術は皮膚のすぐ下の膿を出すだけだったのでベッド上で済みましたが、もう1度お腹を開けないといけないから再入院するように言われたときは、切って人工肛門をつけただけでは済まなかったかと思い、たいへん落ち込みました。手立てが見つからないのも不安で、どうなっていくんだろうと思いました。疼痛もどんどんひどくなってモルヒネ(医療用麻薬)と同じオピオイド系の鎮痛剤を処方されるようになっていたので、痛くなるとナースコールして『ヤクください』って言ってました(笑)」
しかも、壊疽性膿皮症のため、痛みに耐えてパウチを貼っても剥がれてしまうことが続いた。
看護師さんは献身的に世話をしてくれるのだがストーマケアに関しては短期間講習を受けた程度なので限界があり、パウチの取り付けがうまくいかずに、中身が漏れ出して大騒ぎになることもあった。
「横になるとバーッと漏れることがあるので寝るときはベッドを90度に立ててテーブルに枕をのせ、その上に顔を埋めて寝ていました。先生や看護師さんたちは私を少しでも横に寝かしてあげたいと言って一緒に闘ってくださり、先生方にも本当に親身になっていただきました」
ETナースという名の救世主

こんな状態をいつまでも続けていられないと思った真山さんは、教授回診のとき、つらい現状を訴えようと思った。しかし、その直前に放射線科から呼ばれてレントゲンを受けることになったので、部屋に戻ったときには教授回診は終わっていた。
「そのときは悲しくなって涙ながらに看護師さんに『私、このことを教授に聞いて欲しかった。このままの状態じゃあ困るんです』と言って、ワーッと泣いちゃったんです。
年下の27歳くらいの看護師さんでしたが、しっかり受け止めてくれて優しく慰めてくれました。本当に、看護師さんには恵まれたと思っています。強がっていた私に、同室の方は『川人さん(真山さんの本名)も泣くことがあるのね、安心したわ』と言われました」
しかし朝が来ない夜がないように、どん底状態にも徐々に光が差すようになる。
まず大きな助けになったのは、週に1回、専門のETナースに来てもらえるようになったことだ���ストーマの補助用具製造販売会社アルケアが、真山さんの窮状を見かねて紹介してくれた看護師だった。
「先生方も、1番よいようにと院外の看護師さんが来ることを心よく了承してくださいました。ETナースさんは多くの患者さんに接していろいろノウハウを持っていらっしゃるので潰瘍化した私の皮膚には吸収パッド付きの皮膚保護材を貼付して、その上に大きなパウチをベチャっとつけたら取れなくなり、ベッドの角度を下げて寝られるようになりました。週に1度でしたが救いの神でした」
壊疽性膿皮症のほうもその後、クローン病の合併症であることがわかり、治療の手立てが見つかったので、症状は徐々にではあるが改善されていった。
「皮膚科の先生が調べてくれて、クローン病の合併症であることがわかったんです。その結果、免疫抑制剤とステロイド剤を使った治療が始まって、よくなりました。ただこの治療は限界があり、後に両下肢に再発します。4年前に両下肢の潰瘍がひどくなり、皮膚科に入院したときに顆粒球除去法の治験(臨床試験)を受け、抗生物質のミノマイシン(一般名ミノサイクリン塩酸塩)も効いて、長くかかりましたが、きれいに治り、おさまっています。内部の化膿はおさまらないので、これに対してはドレーン(誘導管)を入れて膿を出しました。膿は、現在も出ているので何年も管が入りっ放しで、毎日生理食塩水で洗浄しています」
その後、通っていた病院にストーマ外来ができた。それにより自分にあったパウチやちょっとしたコツを教えてもらえるようになり、困ったときは相談に乗ってもらえるようになった。
「手術を受けた大学病院にストーマ外来がなかったので、別の大学病院のストーマ外来に行かなければならないのか。そのことを患者の声に書いたら、すぐにその病院にもストーマ外来ができたんです。ストーマ外来では、目からウロコのことをたくさん教えていただきました」
なくしたものを嘆くな。あるものに感謝しよう

事務所の待合室で新しい台本を練習中
こうしてストーマのある生活に徐々に慣れていった真山さんはストーマ造設からしばらくして、声優の仕事にも復帰した。しかし、小腸ストーマを着けた身で仕事をこなすのは、はじめのうちは容易なことではなかったようだ。
「復帰直後は体重も15キロくらい落ちたまま、体力も回復していませんでしたが仕事が始まると仕事ができる喜びで集中力を発揮しますが、笑う芝居がつらかったです。腹筋がなくなっていたから……。またパウチを交換しなければならない状況のときは、出番がないところを見はからってトイレに駆け込んで取り替えたり応急処置をしています」
最後に、ストーマのある生活になったがん患者さんたちへのアドバイスを伺ったところ、真山さんから次のような答えが返ってきた。
「これは自分へのことばでもあるんですが、(1)なくしたものを嘆くな。あるものに感謝しよう。(2)去る者は追わず。(3)焦らず、欲張らず。(4)何度もトイレに行ってたいへんだけど、時には騒いでご馳走だ! ――気持ちの持ち方は、こんなところでしょうか。それと私は暴れん坊のストーマちゃんでしたが事前に人工肛門になることがはっきりわかっている場合は、ストーマが一生のものとなるときはとくに先生とよく相談なさって、ケアをしやすい、洋服に影響の少ない位置につくっていただくことをおすすめします。私が手術したころより、医学は日々進歩しています」
自らのストーマ経験を紙芝居で恩返し

声優の仕事と平行して04年に『あッこりゃまた一座』という紙芝居の一座を水墨画家の岡田潤さんと旗揚げし、全国各地で公演を行っている。その出し物の中には、『泣き笑いストーマちゃん物語』という自身の経験をもとにした演目もある。その動機を彼女は、「患者会などで出会うオストメイト(病気などが原因で人工肛門、人工膀胱を持つ人)に、いろんなアドバイスや経験を聞かせていただき、たいへん助かったので、今度は私が私の体験を皆さんに語っていくのが使命だと思っていますから」と笑顔で語る。
悩みを話せるオストメイトがいないという方や、人工肛門になった家族がいる方などは、ぜひ『泣き笑いストーマちゃん物語』を1度ご覧になっていただきたい。ストーマになった当初は戸惑うこと、つらいことだらけでも、笑いを失わなければ、ストーマを一生の友として付き合っていけることがわかるのではないかと思う。
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