子宮頸部腺がんを体験したことで、人のありがたみがよくわかった 予後の悪いがんを乗り越え、舞台に立った 女優・三原じゅん子さん

取材・文:吉田健城
撮影:向井 渉
発行:2010年3月
更新:2018年9月

麻酔から覚めて「早く歩きたい」

写真:S病院入院当時の三原さん
写真:S病院入院当時の三原さん

S病院入院当時の三原さん。「主治医の先生を信頼していたので、8月の舞台に絶対に立てると思っていました」と語る

手術は、通常より長くかかったが無事終了した。長くかかったのは15年前に卵管膿腫と診断されて手術を受けた部分が小腸に癒着していたため、その部分の小腸も数センチ切る必要が生じたためだ。

麻酔から覚めたとき、彼女がまず思ったことは、「早く歩きたい」ということだった。

「舞台に立つことしか頭になかったので、早く体力をつけたかったんです。手術当日から、歩き始めました。歩くといっても、最初は病室にある冷蔵庫までです。氷だけは口に入れてもいいので自分で取りにいったんですが、これが大仕事でした。腹筋は全然使っていないのに、電動ベッドがグーッと起き上がってくるだけで痛いんです。
床に立つときは、脚を片方ずつ手で持ち上げるようにしてゆっくり床におろして点滴ホルダーにつかまってなんとか立ち上がったという感じです。部屋の中にある冷蔵庫に行くだけなのに、20分もかかってしまいました」

そのあとはどんどん歩く距離が長くなり、階段の昇り降りも苦にならなくなった。

痛みのほうも、思ったよりひどくなかったようだ。

「痛いのは痛かったですが、絶えず背中から麻酔を注入していたので、私の場合、寝られないほどずっと痛みに苦しむようなことはなかったです。それより、頭痛がひどかったですね。原因はよくわかりませんが、幻覚のような悪い夢も見ました」

肉体的にどん底だったが、舞台稽古を開始

術後の経過は順調で排尿障害に悩まされることもなく、術後14日目に予定通り退院の運びとなった。しかし、退院したからといって舞台に立てるわけではない。舞台では大きな声を出し続けないといけないが、まだ栄養補給が十分にできない状態だったので不安は大きかった。それでも、退院の5日後には舞台稽古が始まるので三原さんは退院後、体を休める間もなく名古屋に向かった。

そんな不安心理も舞台稽古初日、恩師の武田鉄矢さんからもらった心に沁みる励ましによって消し飛んだ。

「舞台稽古に行ったら、武田鉄矢先生が『病気は誰にでも来るもんなんだ。お前は人よりちょっと早かっただけだ。みんな同じ経験をするんだから心配するな』って言ってくださったんです。それで急に気分が楽になりましたし、���向きな気持ちになることができました」

しかし、肉体的にはまだどん底の状態だった。舞台稽古初日、大きな声で演技を始めると目まいがしてきた。これは栄養補給を十分にできていないことが原因だった。

「食事をしておなかが膨れると、傷が傷ですから痛むんです。それが嫌で、食事をする気が起きなかったんです。それならそれで何か別の方法で栄養補給をする必要があるので、朝と夜、甘酒を飲むことにしたんです。もちろん、アルコールは入っていないので酔っ払うことはありません(笑)」

甘酒というと一昔前の子供の飲み物というイメージだが、ブドウ糖をはじめさまざまな栄養素がバランスよく入っているため、米麹を発酵させた栄養ドリンクなどと評価されている健康食である。食物繊維が多く含まれ、消化吸収もいいので、食事をする気が起きない三原さんにとって甘酒は最良の栄養源になった。

これに加え、三原さんは主治医のT医師が手配してくれた名古屋市内の病院にもしばしば出かけ、点滴を受けて演技中に目まいが起きないように気を配った。

幕が下りるのと同時にあふれ出した涙

こうした努力を重ねた結果、三原さんは無事8月2日に舞台初日を迎えることができた。

演目は『母に捧げるラストバラード』。6年前に上演された前作が大好評だったことを受けて企画されたもので、前作の共演者が同じ配役で行うのもウリになっていた。三原さんが演じるのは、物語の主人公武田イク(鉄矢さんの母)を慕うエネルギッシュな女性阿南満子。出番が多いうえ、トコトン元気な女性というキャラクター設定なので、かなり体力がいる役だ。

それだけに初日、無事やり終えて舞台の幕が下りたときは感慨もひとしおだった。

「初めて涙が出ました。それも一気に。このときのために頑張ってきたわけですから。心の底から、よかったなーって思いました」

がんを体験し、得るものがたくさんあった

写真:S三原さん

名古屋での公演が終わると、休む間もなく東京で以前と同じ多忙な日々が始まった。それでも三原さんは、しばらく再発するのではないかという不安が消えなかった。

「毎月1度検診を受けていたんですが、細胞診の数値が下がらなかったんです。普通の人は1か2なんです。でも私の場合、しばらく3という擬陽性レベルのままだったんです。先生からは『こういうケースもある。転移はしていないから大丈夫です』と言われていましたが、不安はぬぐえませんでした。それが、手術から9カ月後の昨年3月になって1になったんです。これで、やっとよくなっているという実感が沸いてきたんです」

最後に、がんになって得たものは? と尋ねたところ、彼女から言葉がほとばしるように出てきた。

「たくさんあって、何から言っていいか迷うくらいです。1番大きいのは、人のありがたみがわかるようになったことですね。親兄弟とべったりのタイプではなかったので何年も親の顔を見ていなかったんですが、がんは報告しなくてはマズイだろうと思って母に報告したんです。はじめ母は取り乱して泣いていましたが、気を取り直して『私は甲状腺がんを克服した経験がある。あんたは私の子だから大丈夫だ』って励ましてくれて、しょっちゅう病院にも来てくれました。それからですね、両親と近くなったのは」

家族以外にも彼女は役に立つ情報を提供してくれたがん仲間、仕事の範囲を超えて献身的に支えてくれたスタッフ、心の支えになってくれた友人たちにも、ずいぶん助けられたと語る。

「おかげで、自分のことしか考えない人間ではなくなりました。怒らなくなったし、まわりの人の健康にも目がいくようになりました。以前は体をこわしていても仕事をして当たり前みたいに思っていたけど、そういうのはちっとも美学じゃないと思うようになりました」

がんは、心掛けしだいで自分の教師になる。今後も、彼女はがんとの付き合いの中で、さまざまなことを学びながら、自らの生きる糧にしていくように思える。


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