ラッキーという細い糸がつながったからこそ、俺は生きている 術後1年余で「絶望的だった」リングに復帰した プロレスラー・藤原喜明さん

取材・文:吉田健城
撮影:明田和也
発行:2010年2月
更新:2019年7月

依願退職ならぬ胃がん退職?

写真:藤原さん

退院後、藤原さんは思わぬ形で、がんの手術を受けていたことをマスコミに公表することになる。退院から4日後、藤原さんの弟子に当たるレスラーが、藤原さんの師匠であるアントニオ猪木氏の団体に参戦することになったため、その記者会見に呼ばれたのだ。記者会見では冒頭、猪木氏が藤原さんのがんのことを喋ってしまったため、藤原さんは記者たちの質問攻めにあい、翌日のワイドショーやスポーツ各紙は『藤原組長、胃がんだった』とトップネタ扱いで報じた。

「報道で俺のがんのことを知って前田日明はじめ、いろんな連中から電話がきたし、健康にいい水だとか、朝鮮人参を送ってくれた人もいました。中には、酒を送ってきたやつもいました。迷惑だった? とんでもない。退院した日から飲み始めていたから、ありがたかったですよ」

その後、藤原さんはVシネマ(レンタルビデオ専用映画)などに出演する傍ら、IGFプロレスの立会人を務めながらプロレス界との関わりを保った。

しかし、リングに復帰できるとは思っていなかった。

ところが、立会人をやっているうちに心境に変化が生じてきた。

「もう、『プロレスはできない』と思っていました。まわりにも、依願退職ならぬ『胃がん退職』だって言っていました。IGFプロレスの立会人をやらせてもらっていましたが、はじめは、『俺、今までよくこんなことやっていたもんだな』と思っていました。体力も体重も落ちて、まだ病人の体でしたから。でもTS-1の服用が終わってトレーニングができるようになると、自信がついてきて、やりたくなってくるんです。リングの上のファイトを見ていて、こいつ下手だなあって思ったりしてね」

抗がん剤を行いながらリングに復帰

藤原さんのリング復帰が実現したのは、08年12月のことだ。

それも、メーンイベントに登場し、初代タイガーマスクの佐山サトルとシングルマッチで戦っている。

「試合を組まれたからやったという感じです。話がきたのは3週間ぐらい前だったけど、9月ぐらいから来るなーという予感はあったのでスクワットやベンチプレスとか、(負荷のかかる)トレーニングはひそかにやっていました。リングに上がるには、筋肉をつけて体重を100キロまでもっていく必要がありましたから」

この試合も、藤原さんの入場曲である『ワルキューレの騎行』に乗ってリングに登場し、Tシャツを脱ぎ捨てた瞬間、観衆の視線は腹に刻まれた縦一文字の手術痕に釘付けになり、大き��どよめきが起きた。しかし開始のゴングが鳴ったあとのファイトは1年2カ月前にがんの手術を受け、抗がん剤を飲み続けている人間とは思えないほどダイナミックなもので、全盛期そのままに得意の関節技を次々に繰り出して佐山を攻め立てた。

その後、息が上がってしまい、防戦一方になって最後はレフェリーストップがかかったが、執念でリングに上がった心意気には会場から熱い拍手が送られた。

手術から2年が経過し、再発の兆候も見えず、定期的に受けている検査の数値も安定しているため、抗がん剤も終了した。

しかし、これでがんとの闘いが終わったとの気持ちになっているわけではないようだ。検査数値は細部まで記憶しており、筆者がいくつか具体的な数値を尋ねてもすぐに答えられるほどだ。

その一方で、再発を恐れている様子は微塵も感じられない。がんになったことで、自分なりに確固たる死生観を持つようになったのだ。

「がんになったときに思ったのは、誰でも1回は死ぬんだから、それがあしたなのか、30年先なのかの違いだけなんだ、ということです。死ぬまで、精いっぱい、一生懸命生きるしかない。あとは、運しだい。今こうして生きていられるのも、ラッキーが重なったからなんです」

末期がん患者との出会い

写真:務所兼アトリエの「焼き物やほのぼの」(東京)で
写真:「焼き物やほのぼの」

1993年から焼き物作りを始める。事務所兼アトリエの「焼き物やほのぼの」(東京)で、作品を販売している。藤原さんが手にしているのは香炉

ラッキーを強調するのでどのようなラッキーが重なったのかを尋ねると、最初は「話が長くなるからなあ」と渋っていたが、お願いをすると、末期がんに冒されたファンとの出会いが、がんの発見につながったことを語ってくれた。

「ファンの男の子は35歳でしたが、悪性リンパ腫で余命3カ月と言われた人でした。俺の友人と知り合いだったんで、その友人が気の毒に思って『悪性リンパ腫で余命わずかのファンがいるから会ってくれませんか』と言ってきたんです。そのときは、たまたまスケジュールがあいていたので、すぐ見舞いに行ったんですよ。会ってすぐに、元気づけようと思って『退院したら快気祝いにみんなで飲みに行こうよ』って約束したんです。その後の治療で治って退院して、普通に生活もできるようになったんで、それはめでたいというので、約束通り快気祝いをしたんですよ。その席で、彼のお母さんは俺のことを知らなくて、遠慮なく『箸の使い方が下手ねえ』って言って、病院に行くようにすすめてくれたんです。すべてはそこから始まるんです」

悪性リンパ腫が治ったファンのお母さんが藤原さんに病院を紹介したことで、藤原さんは3a期というぎりぎりセーフのタイミングでがんが見つかることになるのだ。もし、彼や彼のお母さんとの出会いがなければ、藤原さんはそれまで1度もがん検診を受けたことなどなかったので、末期で見つかった可能性が高い。

「彼が死んでいたら俺も死んでいたし、彼のお母さんが『箸の使い方が下手ねえ』って言わなかったら、やっぱり俺は死んでいた。ラッキーの細い糸がつながったから、俺はこうして生きているんです。それを考えれば、人の一生なんて、綱渡りみたいなもの、運しだい。今日1日を一生懸命生きるしかないんだと思います」

そう語る藤原さんの口調には強い確信のようなものが感じられた。

取材のあと陶芸家でもある藤原さんに自慢の壷や茶碗をいくつか見せていただいたが、シンプルでいながら深さと強さを漂わせるそれらの作品には、そうした藤原さんの心境が強く反映されているように思えた。


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