乳がんの全身転移と闘いながらフル回転で創作活動を続ける、漫画原作者・有里紅良さん がんは気合で治せる病気ではないが、気合で生き続けられる病気です
耐えがたい痛みに無策な医師に絶望

07年の夏になるとそれまで鈍痛だった痛みが日増しに激しくなり、耐えられないレベルになった。処方されていた痛み止めが効いていないのは明らかなので有里さんは病院に行って主治医に痛みでまったく仕事が手につかなくなっていることを訴え、対策を講じてくれるように頼んだ。しかし、医師の反応は冷やかだった。
「痛み止めの薬はこれ以上出せない、と。痛みに対してはこれ以上どうにもなりませんと言われているようなものですから、絶望的な気持ちになりました。痛みは仕方がないという答えしか返ってこないので、もう死を待つだけですよと言われている気がしました。精神的にいちばん落ち込んだのは転移を知らされたときではなく、このときです。がんの疼痛というのは、お腹をこわしてトイレに行くような痛みではないんです。真っ暗な中で真っ黒な手がまきついて、ズルズルと下に引きずり込まれるような痛みですから」
途方にくれた彼女は医師にセカンドオピニオンを取らせてください、と言って癌研有明病院を訪ねた。癌研の医師は疼痛のケアに十分手を尽くしながら、抗がん剤でがんを小さくするという治療方針を示した。それに手応えを感じた彼女は、癌研に移ることを決めた。癌研に移ったのは、07年の7月。抗がん剤は、タキソール(一般名パクリタキセル)単独で投与は2週間に1回。疼痛対策には、デュロテップパッチが処方された。
「パッチをやるようになって痛みがおさまり、生き返った気持ちでした。癌研のいいところは、痛みに対するケアが万全で24時間対応する体制ができていることです。指示も丁寧で、具体的にはじめにこうしてください。次はこれを飲んでください。すぐに飲んで大丈夫ですから、といった感じで患者の側に立った指示があるんです。前の大学病院のときはそうじゃなくて、鎮痛剤は何時間ごとに飲まなければならないということすらちゃんと教えてもらっていなかったんで毎食後に飲んでいました。いま思うと、ひどい話です」
座っているだけでは何も変わらない
痛みはおさまったが、今度は抗がん剤の副作用という難敵が待ち構えていた。点滴によるタキソールの投与が始まったのは、07年9月中旬のことだった。
「やりだした当初は厳しかったですね。最初は、吐き気との闘いでした。何も食べられなくて、3日間は何もできなかったですね。4日目くらいから少しずつ回復してきて、1週間ぐらいでようやく自分の体に戻ってきた感じでした。仕事ですか? 副作用がきつくて、はじめの頃は、これが続くんじゃあ仕事にならないなと思いましたが、それでも5日目くらいには復帰するように努力をしました」
吐き気や倦怠感以外にも、脱毛、味覚障害、末梢神経障害、不整脈などの副作用に悩まされつつ、それでも、彼女はそのときそのときの状況と折り合いをつけながら仕事をこなしていった。前述のブログに、次のような箇所がある(08年2月22日の日記から抜粋)。
それでも、落ち込んでしまう時は素直に泣きながら、嵐が通り過ぎるのを待ちます。
泣くだけ泣くとすっきりして、もう一度頑張ろうという気持になるので。
よく、我慢しないで泣いてくださいというメッセージを頂くのですが、ちゃんと泣いてますよ。
辛い時はきちんと泣きながら、それでも走ります。
座っていても何も変わりませんからね。
できるだけ、できるだけのスピードで。
今は嵐の真っ只中なので、ちょっと歯を食いしばっています。
速く通り過ぎますように。
大丈夫やまない雨はありません。
来ない夜明けもありません。
ちゃんと知っているので我慢できます。ちょっとだけ、ちょっとだけ。
痛いのも苦しいのも悲しいのも、ちゃんと力に変えます。
変えて笑顔にしますとも。
負けるもんかー。はふう。
この箇所は有里さんの人生哲学が行間に滲み出ていて、ジーンと来るものがある。
骨髄転移を知らされて落ち込む

タキソールはつらい副作用もあったが、効果も大きく、がんは投与を開始して間もなく12センチまで大きくなっていたものが7センチに縮んだ。しかし、すべてが順調だったわけではない。08年に入ってまもない頃、PETを受けて骨髄への転移が見つかったのだ。
「癌研の緩和ケアの先生から知らされたんですが、このときは落ち込みました。ドラマとかでも骨髄転移となると『覚悟をなさってください』という感じじゃないですか。カウントダウンが始まったんだと思いました」
彼女は骨髄転移を知らされたとき、死へのカウントダウンが始まったように感じたという。
しかし、その後も抗がん剤治療をやって1週間くらいは、はふう、はふうと息をすることはあっても現役バリバリで1人4役もの仕事を見事にこなしている。
有里さんのメインの仕事はマンガの原作で、夢来鳥ねむさんと二人三脚で生み出す作品はいまも多くのファンの心を掴んでいる。彼女は創作集団『ラ・ムウン』の主宰者でもあるが、以前と変わらぬペースで企画を考案し、イベントをプロデュースしている。3児の母としての役割は上の2人がすでに社会人になって家を出ているので、同居しているのは高校1年生の末っ子・夢樹君だけになり、旦那さんと夢樹君の食事の世話をすればいいだけになっている。
絶対ゼロにならないカウントダウン

現代劇「なぞらえ屋」公演直前の稽古風景
今夏、彼女がエネルギーを注いだのはお芝居の制作だ。
90年代からずっと芝居に関わり、脚本と演出を1人で受け持ちながら、数多くの公演を実現してきた。今回はそれをスケールアップすることを狙って、自分はプロデューサー兼原作・脚本という立場に回り、演出を石山英憲氏(Theater劇団子)に委ねた。出演者も、他の劇団などから希望者を募って全員オーディションで決めるという熱の入れようだ。出し物は、『なぞらえ屋~奇巡四谷怪談』。四谷怪談をモチーフにした現代劇で、お岩さんをまつる四谷田宮神社の宮司さんと有里さんの交流から話が持ち上がった異色の舞台だ。主役は小さい頃から役者を志し、立派な演劇少年に成長した末っ子の夢樹君が射止めた。
公演は、9月中旬に銀座(東京)に近い大きなホールで5回行われ、どの回も大盛況だった。

「なぞらえ屋」公演後。キャストと舞台上で撮影
「今回の舞台のチラシを癌研に持っていったら、緩和ケアの先生が『こういうふうに活動してくれるのはほかの方の希望になるから、頑張ってください』と言ってくれました。看護師さんたちも、ビックリしていました。ちょっと、プチヒーローになった気分でしたね」
転移を知らされたとき、カウントダウンが始まったと感じたというが、いまそのカウントダウンをどう考えているのか。
「カウントダウンは10、9、8……ときて0になると終わりですが1まできたらまた10に戻して数えなおし、ずっと0にしない感じですね。ゲームをやっている方はわかると思いますが、カウントダウンが始まるとドクロのマークが点滅するじゃないですか。でもデスの魔法というのをかけ直すと、もう1度10に戻るんですよ。それを、やり続けている感じです。だから私は、もうダメだとは全然思っていないんです。がんは気合で治せる病気ではありませんが、気合で生き続けられる病気だと思ってますから」
有里さんには、デスの魔法を唱え続けていてほしい。現在、乳がん治療の進歩は著しい。デスの魔法を唱え続けているうちに特効薬ができて、その恩恵に浴する日が来るだろうから。
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