「がん以後、泉のように曲が湧いてくる」と語るシンガーソングライターの松田陽子さん がん、うつ、離婚・・・どん底から這い上がったど根性
最愛の夫との離婚、娘と生きる道を

2009年、小学校3年生になった最愛の娘さんと
すれ違いが大きくなると、夫は家に帰ってこなくなった。溝が埋まりようもないと感じた04年2月、最愛の夫との離婚に同意した。
「離婚直前の03年秋以降は眠れないし、ご飯も食べられない状態で1日中横になっていました。離婚を決意したのは、このままでは私も娘も死んじゃうと思ったからです。あるとき娘が『ママ、お腹すいた』と言ったんですが、だるくて起き上がってご飯を作ってやれないので『テーブルの上のパンに手が届く?』って言ったんですよ。そしたら、娘がイスによじ登ってパンを取っているんです。その姿を見て、もう夫が帰ってくるのを待っていないで、生きる道を探さなきゃと思ったんです」
離婚から3カ月ほどたったある日、松田さんは心療内科で自分がうつ病であることを知る。
「40度の熱を出していつも行っている内科が休診だったので、別の病院を探したら心療内科があったんで行ったんです。そこでうつ病であることを告げられ、治療が始まり、寝たきりの状態を脱することができました」
娘と2人、しっかり生きていく基盤を作るため、松田さんはイベントの司会やテレビ・ラジオ番組の進行役の仕事を再開していく。しかし、うつ病の治療薬を服用しながら、集中力を必要とする仕事をこなすことはそう簡単なことではなかった。
「スカパーの番組の司会をやったり、イベントの進行役なんかをやるようになったんですがつらかったのは抗うつ剤や精神安定剤を服用しているのでなかなか台本原稿を覚えられないことでした。抗うつ剤って、死にたいと思っている脳みそをバチッと止めるもんじゃないですか。ボケーッとさせて。だからセリフを覚えても覚えても、すぐに吹っ飛んでしまうんです。その連続でしたからいつも手に汗にぎりながら、緊張を隠してやっている感じでした。いま考えれば、本当によくやったと思います」
「生きている、それだけでいい」と伝えてくれた友人たち
うつ病から抜け出す上で、もう1つ大きな力にな���たのは、最愛の娘さんの存在もさることながら、松田さんのつらい状況を理解し、支えてくれた友人たちがいたことだった。うつ病に苦しんでいる人間に必要なのは、「頑張れ」と言ってくれる友人ではない。話を聞いてくれて、「生きている、それだけでいい」と伝えてくれる友人だ。松田さんには、そんな友人がいた。
ヒット曲『大阪で生まれた女』で知られるシンガーソングライターのBOROさんも、その1人だ。BOROさんのセミナーに参加し、それがきっかけで精神面でいろいろ支えてもらうようになった。歌手人生で死のうと思った経験があるBOROさんは、松田さんの痛みや、つらさを理解し、心にしみる言葉をかけてくれた。
「司会をやっているとき、BOROさんが、『陽子も歌を歌い』って声をかけてくれたんです。とてもそんな気になれないので『歌えない、歌えない。精神的につらくて人前に出るのも大変やのに』って言ったら、『途中で止まってもいいから』って笑顔でおっしゃるんで、すごくホッとした気分になりました。奥さんも痛みがわかる方で、家に呼んでくれて、ボロボロになって泣いている私を『今のままの陽子でいい』って、ギューっと抱きしめてくれる感じなんです。今でも仲良しですが、精神的にいちばんつらいとき、実の娘のように接してくれたのは本当にありがたかったですね」
3歳のときからの幼馴染みであるユミさんにも、感謝しているという。
「私が抗うつ剤を飲みながら東京で仕事をしているとき、こっちのしんどい状況を察して来てくれたんです。『新幹線代、もったいないから夜行バスで来たんよ』って訪ねてきてくれたときは自分1人で生きているんじゃないっていうことを実感しました。もちろん、母にも感謝しています。以前の私は、家族に援助を求めないでなんでも1人でやっていこうとしたけど、仕事で大阪と東京を行き来するようになると小さい娘がいるので、母の助けなしにはやっていけません。これを機に家族の絆が、これまで以上に深まったように思います」
がんやうつ、離婚を経験したことはシンガーソングライターとして成長する上では大いにプラスになった。以前は、詩が書けても曲のほうはなかなかメロディが浮かんでこなかったが、がんを経験した後はメロディや曲想がどんどん出て来るようになった。とくにテレビで戦争のシーンを見たり、難民に関する報道に接したりすると曲が自然に湧いてくるようになった。2年前には、難民支援に取り組むボランティア団体『self』をたちあげ、チャリティライブやイベントを開催している。
難民支援やがんの後の生き方を変えるきっかけとなったのは、がんの術後に出合った『すべては愛のために(原題はBEYOND BORDER=国境を越えて)』という1本の映画だった。
アンジェリーナ・ジョリー扮する英国の貴婦人が、紛争地帯の難民支援に取り組む青年医師と知り合い、エチオピア、カンボジア、チェチェンで飢餓と貧困に苦しむ人々の支援活動に身を捧げる姿を、現地の悲惨な状況を織り交ぜながら巧みに描いた作品である。
スクリーンには、戦争であっけなく死んでいく子供たちや飢餓で食料を求めてさまよう子供たちが次々に映し出されるが、それを見て「自分もむしょうに何かをしたくなった」という。そのような心境になったのは、リュックを背負って世界を見てまわった経験と無関係ではない。
「これまで世界30カ国以上を回りましたが、中でもスリランカで目にした光景はショッキングでした。スリランカでは、手や足を失った子を台の上に置いて物乞いしている大人がたくさんいるんです。現地の人に、スリランカはなぜこんなに手や足を失った子が多いのかを訊いたら『親が自分の子供の足を切断して、物乞いの道具にしているんだ。だからお金を絶対に恵んではダメだよ』って言うんですよ。ショックでした。また、あの映画と出合ったことで、娘を不幸だと思わなくなったことも私にとってはとても意義のあることでした。その頃はうつでどん底の状態だったので、離婚でパパはいなくなり、ママはがんでいつ死ぬかわからない。娘に申し訳ない気持ちで一杯だったんです。でも、この子は蛇口をひねれば水も飲めるし、屋根のある家にも住めてるんだから、けして不幸じゃない、って思えるようになりました」
誰かの人生の分岐点になれる歌を

大学時代は、国連の職員になることが夢だったという松田さんは時間の許す限り、支援活動に時間を費やすようになる。その活動はUNHCRから評価され、日本事務所の広報アドバイザーという称号を与えられた。
「根底にあるのは、どん底の状態から多くの方々に世話になったんだから、自分もほかの人にできることをしようという気持ちです。今後は1人の人間として、1人の母として、司会者として、シンガーソングライターとして自分の生きざまをベローンと語って歌って、それを見てもらいたいです。
私は格好つけて歌うシンガーでもないし。寝たきりのうつで苦しんでいたときに書いた歌もたくさんあります。私自身の経験で言えば、1つの映画、支えてくれたBOROさん……など人生の分岐点って誰にでもあると思うんですよ。いま人生に行き詰まっている何人かにでも私の歌が届いて、その方たちの人生の分岐点になれればいいなと思っています」
がん、うつ、離婚……というどん底から這い上がってきたからこそ、彼女の歌は誰よりも強く「生きる」ことを教えてくれるのだろう。
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