私の胃がんから20年、今の2人がここにいる 大助・花子の愛称で親しまれる夫婦漫才コンビ・宮川花子さん

取材・文●「がんサポート」編集部:菊池亜希子
撮影●霜越春樹
発行:2009年4月
更新:2019年7月

ずっと漫才を辞めたかった

遡って30年前、2人は結婚3年目に、大助さんの強い希望で漫才コンビを結成した。その後の特訓も大助さん主導。花子さんは、やっとの思いで彼に付いていっていた。

「辞めようと思ったこと? 何度もありますよ。というより、いつも、もう辞めよう、今度こそ辞めよう、の繰り返しでした。漫才は大助くんの夢。私は家庭に入って、夫や子供と楽しく過ごしたかったんです。それが私の夢でした、ずっと」

胃がんに苦しんだ20年前、花子さんの気持ちは大きく乱れた。漫才で早く売れたら1日も早く辞めて、自分自身の夢を叶えたい、そう思って頑張ってきた彼女の前に突如、がんというとてつもない壁が立ち塞がったのだから。

「私の人生において、本当に変な時期でした。漫才は大助くんが言うからやってたという感覚なので、全部、彼のせいにしてました。『こんな体に誰がした!』と叫び、『あんたに付いてきてこの人生はなんや!』と詰った。恥ずかしい話です。彼に対する恨みがポンポン口をついて出てきてしまった。あのときは心身ともに病に負けてる自分を、いつもどこかで感じてました。大助くんもしんどかったと思いますわ」

その後も「宮川大助・花子」コンビは人気上昇を続ける。花子さんは「こんな病気をしても辞められへんの?」と自問自答しながらも、大きな波に逆らうことはできなかった。そして、自身の立ち位置を揺るがす出来事が起こる。

「96年に娘の紗弓(漫才コンビ「さゆみひかり」のさゆみさん)がカナダに留学すると言い出したんです。そのとき、思わず『それなら私も一緒に行く!』と飛びつきました。そしたら紗弓が『お母さんは、どうして自分のために生きないの?』と一言。エッ……自分のためって何? って感じで、放心状態でした」

紗弓さんは1人で旅立った。花子さんは、日本で大助さんと共に漫才を続けた。

その花子さんが、07年に脳内出血で倒れた大助さんに「1人で行っといで」と言われたとき、その言葉通り、1人で舞台に立ったのだ。あのときこそ、辞めるチャンスだった。けれど、花子さんは辞めようとはしなかった。いつの間にか、漫才は“大助の夢”から“大助・花子の夢”になっていたのだ。

「漫才がいつの間にか私自身の人生になってたんやね。やっと今、ほんまに自分のために漫才やってる、と思えます。気付いたのは、大助くんが倒れたとき。そういえば、これまではいつも『結婚○周年』て数えてきたけど、今年は自然と『コンビ結成30周年』て思てるわ。ねえ、30年ってすごくない? 私ら、芸人って言うても、もうええんちゃう?今なら、自分でも自信持って言えますわ」

「このダンナは私のや」

宮川花子さん

一晩で夫の命がどちらに転ぶかわからない、という経験をし、その後、全身に��痺の残る夫に寄り添いながら、花子さんはこの2年間を生きてきた。しかし、そこにしんみりした空気は微塵もない。とにかく明るい。そして笑いが絶えない。ご自身のがんと大助さんの脳内出血を振り返って、花子さんはこう語った。

「私ががんになったとき、めちゃくちゃしんどかったし痛かったから、自分でよかった、と思いました。娘や大助くんをこんな痛い目に合わせたくないから。だけど、今回は大助くんでよかった(笑)。だって、今は私、働けるから。漫才という仕事にも、ようやく誇りを持てるようになったし、今なら頑張れる。それに何より、男の人って弱いじゃないですか。この年齢で嫁が倒れてしまったりしたら……」

大助さんの病を経て、花子さんの中で、何かが大きく変わったという。それはいったい何なのか。その問いに答えようと言葉を探す花子さんの眼差しが、十分に言葉以上のものを語っていた。

「2007年2月5日までの私は、ちょっとは強い女やった。けど、2007年2月5日からは、ものすごい強い女になった」

しばらく間を置いて、彼女はそう表現した。そして再び一点を見つめ、

「このダンナは私のや、と思った」

と続けた。静かな言葉だった。

親子の縁は切っても切れないけれど夫婦の縁は紙1枚、などと世間ではいう。そうじゃない、と花子さんは言いたかったのだと思う。私たちの夫婦関係はここまで来た、と。そして、このときを機に、ものの感じ方の根幹が変わったそうだ。

「こないだ偶然乗ったタクシーの運転手さんと話してたら、えらい苦労してる人で、『私、離婚してるんですよ』て言うもんやから『なんで離婚したん?』て聞いたんです。『男ですからね、ちょっとオイタして……』『浮気かいな?』『はい……』。以前の私やったら、ここで、『何考えとんねん! そやからバチ当たったんや。のたれ死ね!』とか言うたと思うんやけど、今は違いますね。『で、その浮気相手と一緒におるの?』『はい』『よかったなあ、一緒にいてくれる人がいて』。心からそう思いますもん。死ぬとき一緒にいてくれる人がいて、この人よかったなあ、て」

がんに苦しんだときは確かにつらかった。けれど、逆にいえば、自分の痛みや苦しみしか見えていなかった、と花子さんは言う。病気の身内に寄り添うということは、体の痛みはないけれど、いや、体の痛みがない分、心の痛みが大きいのではないだろうか。大助さんの闘病中、花子さんは「あんたは痛いだけでしょ!」と思ったこともあるそうだ。「いろんなものを見た。いろんな人を見せてもろた」と一言一言を噛みしめるように呟いた花子さん。それらすべてのことが、彼女を大きく強く、そして優しくしたに違いない。

百円玉を握りしめて立つ

写真:ホノルルマラソン42.195キロにて

2003年12月15日、2人揃って参加したホノルルマラソン42.195キロにて。ゴール直前の表情

写真:なんばグランド花月から見た夜景をバックに

なんばグランド花月から見た夜景をバックに。カリビアンカラーの衣装は花子さんの手編み。「ほかにも12着は編んでますよ」とにっこり

1999年から毎年参加してきた年末のホノルルマラソンにも、1年越しで今回、2人揃って参加した(08年12月13日開催)。ただし、フルマラソンではなく、10キロウォークに。毎年42・195キロを颯爽と走っていた大助さんが、今回は10キロウォークを7キロ地点でリタイアした。

大助さんは、自身のリハビリへの熱心な取り組みの甲斐あって、「よくて半身不随」と言われたとは思えない回復を見せた。現在は足に痺れが常にある状態。正坐して急に立ち上がったときに痺れる、あの状態に近いのだそうだ。そんな中で7キロを歩き通すのは、どれほどの苦しみだろう。

「最初から、病院の先生と3人で約束してたんです。5キロを一緒に歩いて、私が『ああ、もう5キロ来たなあ』と言ったとき、彼が『ほんまや、もう5キロや』と言うたらゴールまで行く。でも『まだ5キロか』と言うたらリタイアする、と。5キロ地点での大助くんの反応は『まだ……5キロ……』でした。それでも私は何も言わなかった。私が言ったら私の意志になってしまうから。彼から『辞める……』という言葉が出たのが7キロ地点でした。その後、病院に行ったとき、先生が『よかった、治ってきてますね』と。断念する勇気を持てて、決断できてよかったって。健康な人が10キロウォークをリタイアするのは、根性ナシ、ヘタレなんですよ。でも、病気の人は断念することも勇気なんや、とこのとき感じました。あ、私? 大助くんを病院からホテルに送り届けた後、またコースに戻って、10キロちゃんと完走しましたよ。当たり前やん、介護しに行ったわけやないもん(笑)」

今、花子さんは、毎日が楽しいのだそうだ。たとえ嫌なことがあっても、腹の立つことがあっても、それもすべて生きてる実感に繋がるから、と笑う。「ぜんぶ面白いよ。嫌なことで死なへんし」。そんな彼女に、ただ1つだけ、怖いことがある。

「病気だけは怖い。だから病気せんように、できることはやってます。日頃の健康管理や定期検診、それに、生駒で畑するようになったんも新鮮な野菜を食べたいから。それでも病気をするときはする、それはわかってます。でもね、病気した以上は、そこから何かを学ばんともったいない、とも思てます。コケて、痛くて泥付いて腹立つけど、立ち上がったら百円玉を握りしめていた、というね。大事なのは、この百円玉が何か……ってことやないかなあ」


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