がんより選挙。はじめはそう思っていました 胃がんを克服し、国政へのカムバックを果たした衆議院議員・鈴木宗男さん
心の栄養剤になった激励とアドバイス
がんは患者に肉体的なダメージだけでなく、精神的なダメージも与える。ましてや、入院期間中は選挙戦の真っ最中。ベッドに横たわりながら、テレビで選挙関連の報道を見る心境はどんなものだったのだろうか。
「入院当初は落ち込みました。リターンマッチになるはずの選挙を断腸の思いでリタイアしなくてはならなかったんですから。それでも絶望的な気持ちにならなかったのは、入院中も支援してくださる方たちからファックスや手紙がたくさん届いて、私のことを心配してくれる人がこれだけいるんだと実感できたことが大きいです。ありがたかったですね。そうしたファックスや手紙の大半は『がんは、治る病気なんだから、お医者さんの指示に従っていれば大丈夫です』といった感じの、自分の経験に照らしたアドバイスや激励でしたが、中には『先生、私はもう末期で、残された時間がわずかしかないんです。それでも一生懸命生きて人生を全うします』といった書き出しで始まる末期がんの方からの手紙もありました。落ち込んでも、気持ちがうしろ向きにならなかったのは、こうした励ましやアドバイスが心の大きな栄養になっていたからです。リハビリに真剣に取り組んだのも、こうした方たちに、1日も早く元気な姿を見せたいという気持ちが強かったからです」
退院後、鈴木さんは福井県の温泉治療を行う病院でリラックスしながらリハビリに励んだ。この転地療養の間、いちばん時間をかけたのは歩くことだった。それも、ただ漫然と歩くのではなく、早足とゆっくり足を交互にやって…などバリエーションをつけて歩くことを心がけた。
このバリエーションをつけて歩くリハビリを熱心にやったのは、走ることの訓練になると聞いたからだ。
鈴木さんにとって「走ること」は、マラソンを意味していた。マラソンにも10キロマラソンからハーフマラソン、フルマラソンに至るまでいろいろあるが、鈴木さんは市民ランナーとしてすでに7回フルマラソンを経験しており、42.195キロを完走できる稀有な政治家というイメージができあがっていた。 鈴木さんがマラソン復帰にこだわった理由は2つある。
「1つは、がん患者の自分がレースで元気に走って見せれば、同じがん患者のみなさんに元気を与えることができると思ったんです。もう1つは風評被害をそれによって封じ込めたかったんです。政治の世界は、風邪をひいたって『死んだ』『倒れた』って言われる世界なんです。風邪でさえそれですから、がんとなったらたいへんです。手術で確実に治ることがわかっていても「再起不能」「余命1年」といった風評が1人歩きすることになる。これまで私はそうした風評に殺された人をたくさん見ていますから、それを封じ込めるには、自分がここまで元気になったということをアピールする必要があると思ったんです。それにはレース��出て実際に走って見せるのがいちばんです。10キロのレースに出るには健康体か、それに近い状態の体じゃないと無理ですから」
40歳で10キロレース、46歳でフルマラソン
鈴木さんが初めて長距離レースに出場したのは40歳のとき。走ったのはノサップマラソンだった。高校時代、足寄高校の野球部で俊足トップバッターだった鈴木さんだが、このときは長年の不摂生がたたって、完走はしたもののタイムは1時間03分台だった。
このタイムがショックだったことに加え、その頃、永田町では安部晋太郎、渡辺美智雄、玉置和郎、田中六助といった大物政治家が、次々に病に倒れ、政治家としてのゴールを見ないまま表舞台から姿を消していた。60歳を過ぎたくらいで体を壊す政治家に共通するのは、ゴルフ程度の運動しかやっていないことだった。
これらを背景に、鈴木さんはランニングに励むようになる。
もともと、俊足トップバッターだけに走り始めると進歩は早い。6年後の1994年には、沖縄県那覇市で開催されたフルマラソンに初挑戦。42.195キロを3時間44分という好タイムで走っている。

その後も鈴木さんは、多忙な政務の間をぬって、主に北海道と沖縄で開催される市民マラソンやロードレースに参加し、『走る政治家』として知られるようになる。
それだけに、走ることで回復をアピールしたい気持ちは強かった。
マラソンレースへの復帰を目論む鈴木さんにとって、いちばん大きなネックは体重と体力の低下だった。胃の3分の2を切除したあとは、食物の摂取が十分にできなくなるので体重が減る。鈴木さんも手術前は72キロだった体重が61キロまで落ちていた。これだけ落ちると、体力も低下する。
「12月に政治活動を再開したあと、ランニングも始めたんですが、お風呂に入ると、すぐにのぼせるような感じがありました。そんな状態では無理はできませんから、はじめはゆっくり、歩くよりちょっと早いくらいのペースで走っていました。まだ、週に2~3回のペースでランニングを始めたのは3月になってからです。3月のはじめに主治医の佐野さんに『ジムで走ってもいいですか』って訊いたら、すぐにオーケーが出たんで、走り始めたんです」
バッシング一色ではなくなった「ムネオ報道」

本格的にランニングを再開して間もない2004年3月14日。鈴木さんは皇居を外周する『東京シティマラソン』に参加。10キロを47分台の好タイムで走りきった。順位は119人中13位。がんの手術から4カ月半しか経っていない被告人の鈴木さんが、国会を背にして走るということで、スポーツ各紙や夕刊紙は7月の参院選へのデモンストレーションと解釈し、大きなスペースを割いて報じた。
興味深いのは、どのメディアも比較的ポジティブなトーンで報じていたことだ。それまでの「ムネオ報道」はバッシング一色だったことを考えれば、このとき起きた変化は注目に値する。
この「イメチェン」という望外の果実を手にできたことは、政治的な復権を果たす上で大きな意味を持つ。その年の7月に行われた参院戦に出馬した鈴木さんは、惜敗したものの48万票という大量得票で支持層が拡大していることをアピール。翌05年の衆院選では新党大地を立ち上げ、比例区北海道ブロックで当選。国会への返り咲きを果たした。
こうした一連の流れを見ていると、がんになったことは、プラスに作用している面もあるように思えてくるが、鈴木さん本人はどう考えているのだろう。
「私自身は、がんになったことを天の配剤だと思っているんです。がんになったことは、たしかにつらいことではあったけど、人生観が変わる大きなきっかけになった。以前の私は、前ばかり見て仕事をしていました。前というのは権力のことです。それががんになって、自分の横や後ろにあるものも見えるようになった。以前に比べて、皆さんに理解されるようになったのも、立場の異なる人の考えや価値観を素直に受け入れて、いろんな方と同じ目線で付き合えるようになったことが大きいと思っています」
天はそれぞれに叶った運を下す――天の配剤をそう解釈すれば、がんはたしかに、新しい鈴木宗男を誕生させる触媒になっている。2003年の衆議院選挙直前というタイミングでがんが見つかったのも、古い鈴木宗男にピリオドを打たせようという天の意思だったのかもしれない。
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