あの日、腎がんを克服し、『徹子の部屋』に出ると決めた 左腎臓にできたがんは13センチ。「これからも僕はがんと上手に付き合います」と語る俳優/タレント・小西博之さん

取材・文:吉田健城
撮影:向井 渉
発行:2009年2月
更新:2019年7月

余命の告知と手術後の激痛

写真:左腎臓摘出術による手術痕

左腎臓摘出術による手術痕。「頴川先生につけたもらったVサインです」と小西さん

「手術室から出てきた頴川先生は、その足で僕の身内やスタッフたちの所へ行き、手術は無事終わったこと、そしてリンパ節を郭清した旨を告げ、こうおっしゃったそうです。『リンパ節の腫れ具合から見て、かなりの確率でリンパ節転移していると思われます。その場合、かなり厳しい状況になります。皆さまにはその心積もりをしておいてほしいのです』と」

リンパ節に転移していれば、遠隔転移の可能性は大きい。慈恵医大のサイトに掲載されている手術後の予後に関するデータを見ると、がんが腎臓に限局している場合、5年生存率は73~93パーセントだが、腎静脈、下大静脈内塞栓、ないしは所属リンパ節転移があるものは38~80パーセント、さらに遠隔転移がある場合は11~30パーセントになってしまう。リンパ節転移の有無がいかに大きな意味を持つかがわかる。

とはいえ、手術直後の小西さんに、そんなことは知る由もない。手術終了後、意識が戻った彼を待っていたのは、この世のものとは思えない激痛だった。

「麻酔が切れたのは手術翌日の昼過ぎでした。そこから48時間、死ぬ思いでした。凄まじい痛みに泣き叫び、気を失う。その繰り返しです。ナースコールのボタンが離せなくて、何度も痛み止めを打ってもらったけど、すぐ効かなくなって前より痛くなるんです。何をどう叫んだのかまったく覚えていない……」

手術では、13センチものがんを取り出すため、肋骨を2本切断し、脇腹の筋肉と神経を斜めに大きく切ったという。脇腹から側胸部にかけては神経が縦にいくつも走っており、非常に敏感な場所だ。そこを斜めに切った痛みに、骨折の痛みが加わり、想像を絶する激痛になったのだ。その切開痕は、なだらかなVの字形となって、小西さんのお腹に、今もくっきり残っている。

「うんこして泣いたことありますか?」

写真:入院中の小西さん

入院中の小西さん。日記は欠かさなかった。ベッドサイドのテーブルには、摘出した自身の腎がんの写真が

2月20日、手術後4日目の朝、ようやく激痛も去り、小西さんは久しぶりに爽やかな気持ちで朝を迎えた。そして、1番にしたことは、歯磨き。洗面所で顔を洗い、歯を磨きながら、自分がフランケンシュタインから人間に戻っていくような気持ちになったという���その日の夕方、尿管から管を抜き、手術後、初めて自力で排尿し、きれいなおしっこに涙した。翌日の夕方、今度は自分の力で排便。男泣きに泣いたという。

「うんこして泣いたことありますか?」

そう小西さんは問う。あの嬉しさは、まさに「生きている実感」だった。そして、「心配してくれたたくさんの人たちへの感謝だった」と。

手術4日目には傷口が塞がり始めた。それは通常考えられない早さとのこと。5日目には抜歯。小西さんにはもう、回復への道しか見えていなかった。

写真:入院中の小西さん

退院日に慈恵医大の看護師さんたちからプレゼントされた色紙。小西さんの宝物だ

「ところが、見舞いに来てくれる事務所の仲間が、なんだか様子が変なんですよ。こちらは手術後の激痛のこととかいっぱい話したいのに、皆、『元気そうで安心しました』なんて言っては、早々に帰ってしまう。不思議に思っていた矢先、24日の夕方、先生に呼ばれました。行ってみると、そこに事務所のみんなが続々と集まってくる。しかも、皆、神妙な顔をして。何事か……と思いましたね。そこで、頴川先生からリンパ節転移に関しての発表があったんです。『腫れているリンパ節を1週間かけて念入りに調べました。その結果、がん細胞はまったく見受けられませんでした』と。その瞬間、彼らが全員、椅子から転げ落ちて泣き崩れたんです。僕は1人、ポカーンですよ。リンパ節転移有無の意味を僕は告げられていなかったし、頴川先生にすべてお任せしていたから自分で調べてもいなかった。でもこのとき、なぜ皆がうかない顔をしていたのかわかりました。どれほど心配をかけていたか、も」

実はこの席に、小西さんのご両親はいなかった。前日まで息子に寄り添っていた両親だが、リンパ節転移の告知を聞くことには耐えられず、というより、その告知を聞いたときの息子にどう接していいかわからず、前日、故郷の和歌山県田辺市に帰り、近所の神社に2人してお百度参りをされていたという。

リンパ節への転移がないと発表された翌日、2月25日、小西さんは退院した。大手術とは思えない超スピード退院、手術後9日目のことだった。

そして4年、ほんとは、ものすごく怖かった

写真:公園にて

事務所近くの馴染みの神社内にある公園にて。手術前後、毎日この神社を訪れ、気持ちを落ち着かせていた。毎年、夏祭りで地元の人たちと一緒にお神輿をかつぎ、盛り上がる場所でもある

手術から4年が経った。直後から現在に至るまで、3カ月ごとの検診を、小西さんは欠かしたことはない。そして今も元気に全国を飛び回っている。血液検査も今のところ問題なく、すべて正常値。「本当にありがたいことです」と繰り返す。

「皆さん、今までの人生、強運でしたか?」

突然、真剣な顔つきで、小西さんは切り出した。インタビュー陣一同、一瞬、面食らったが、すぐ表情を和らげ、こう続けた。

「僕は、がんという病気を得て、いい意味で、欲がなくなったように思います。生まれてこれた。生きてこれた。死なずに今、ここに生きている。このこと自体が奇跡に近い強運だと僕は思う。生きていればいろんなことがあるけど、少々のことがあっても、生きているだけで、人生、強運ですよ。
大事なのは、自分は強運だと思い込むこと。そして、もし病気になったら、ぜひ、喜んでほしい。だって病気は、きっと治すことができる。そして、治ったら、その病気で苦しんでいる人を、1人でいいから助けてほしい。もし、僕が、僕自身の体験を語ることで、誰か1人の助けになれば、こんなに嬉しいことはないんです。
人間、やっぱり経験しないとわからないことがあります。僕は最初から『助かる』と信じてはいたけれど、でもね、ほんとは、ものすごく怖かった。怖くて怖くてたまらなかったです。たぶん、この恐怖を真正面から見詰めたら自分が壊れてしまう。だから、『ポジティブ・シンキングを自分の体で試すチャンス』なんて自分を鼓舞していたんです。みんなに宣言しながら、実は僕自身に必死に言い聞かせていたんだと思います」

怖くない、はずがない。

がんを克服して『徹子の部屋』に出演する! という2004年12月の宣言は、押しつぶされそうな恐怖を跳ね返して前へ進むための、小西さんのギリギリの戦略だったのだ。

「『徹子の部屋』ですか? もちろん出演しましたよ」と小西さん。しかもそれは、自身ががん告知を受けたときに宣言した通り、2005年7月に実現した。その中で小西さんはこう語っている。

「がんと闘う必要はありません。治ると信じて、付き合っていけばいい。僕も、これからもずっと、こいつと上手に付き合っていきますよ」と。


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