がんという試練に鍛えられたから、パリ・ダカにも挑戦できたのです! 子宮がん、さらには乳がんで両方の乳房まで失いながら、58歳で国際ラリー・ドライバーになった能城律子さん
痛みと共存しながら3年が過ぎた
そのようになるべく薬に頼らない形で痛みと共存しながら、彼女はベビールームの経営者として朝から晩まで働き続けた。
そうしているうちに「3年」が過ぎ、彼女のなかにこのままいけばずっとがんと共存できるのではないか、という自信が芽生えてきた。
「3年という数字は、私と同じステージの方たちの平均余命なんです。子宮がんのときと違って、このときは乳がんであることがはじめからわかっていましたから、主治医の先生にどれくらい生きられるか訊いたんです。そしたら『あなたのステージだと、データでは平均余命3年という数字が出ています』というお話でした。そのときは、3年というのはあくまでも平均値であって、自分がそうなるとは限らないと思ったんですが、やはり具体的な数字を知ると気になるものです。まる3年目が近づいてくると、知らず知らずのうちに“あと2週間”“あと3日”と、カウントダウンしていました(笑)」
痛みは消えることがなかったが、それでも年を経るごとに和らいでくる。すでに50歳代半ばに達していた能城さんは、このまま目先の忙しさに自分を埋没させてしまってはいけないという気持ちが強くなり、また世界をトコトンみてやろうという欲求が沸いてきた。
国際ラリーに出てみたい
そんな折、彼女は新聞を見ていて1面広告に目が釘付けになった。そこに出ていたのはパリをスタートして、ユーラシア大陸を横断して北京に至るマスター・ラリーの紹介記事だった。ルートを見ると旧ソビエトのトルクメニスタン、ウズベキスタン、カザフスタンなど、それまで政治体制の違いなどにより、行きたくても行けなかった地域の名前が出ていた。
「自動車ラリーのことなんか全然知らなかったので私、ラリーに参加すればトルクメニスタンにもウズベキスタンにも行けると思ったんです。自動車のオフロード・ラリーって、知らない人から見れば、砂漠やステップの道(カザフスタン)を長時間走り続けるだけのイベントにしか見えませんから、自分にもできると思っちゃったんです。幸いクルマの運転だけは得意でしたから(笑)」
このようにオフロード・ラリーの世界に入るきっかけは、世界を見たい好奇心から出たものだったが、きっかけはどうあれ、いったん出ると決めたあとにみせた能城さんの行動力は驚嘆すべきものだ。
彼女はパリ・モスク���・北京ラリーの主催者が三菱商事であることを突き止める。広い人脈を活かして三菱商事の当時の社長に面会した。その席でマスター・ラリーの事務局長を紹介してもらい、さらに事務局長から三菱ラリーアート(三菱自動車のラリーチームを運営する会社)の社長も紹介してもらった。
こうして彼女は瞬く間に大きな影響力をもつ人物にアプローチすることができた。
しかし、いくら「やらせてください」とお願いしても、初めはまったく相手にしてもらえなかった。
「お会いした相手の方たちはみな、並外れた体力が必要だって言うんです。私は、148センチ、35キロの小さな体ですから、とても無理だと思われるのは至極当然なことです。でもその程度で、くじけてはいられませんから、ラリーで必要とされるタフさは備えているので、是非やらせて下さいと食い下がったんです。そしたら今度は、トイレもシャワーもないところで寝袋にもぐりこんで寝ることとか、食事といっても缶詰くらいしか出ないことなんかを持ち出して、何とか翻意させようとするんです。でも、そんなことはまったく障害にならないことを、ニコニコしながらお伝えしたんです。そしたら根負けしたみたいで、互いの顔を見て『ダメですよ。この人に何を言っても』とため息をついていました」
こうして三菱自動車にパイプを作ることはできた。国際ラリーに出場するには国際A級ライセンスがないとダメだが、彼女は持ち前の集中力で取得に全力を傾け、わずか1年弱でゲットしている。
オーストラリアン・サファリでの金字塔

デビュー戦となったのは1994年のオーストラリアン・サファリ・ラリーだった。世界3大オフロード・ラリーの1つに数えられるこのラリーは、体感温度が50度を超す灼熱の大地を5500キロ走り続ける過酷なレースだ。彼女は初陣でこそ途中リタイアを余儀なくされたが、翌年もう1度挑戦したときは、見事完走しただけでなく総合9位。女性ドライバーでは1位になる健闘を見せた。
95年には3大ラリーのなかでももっとも有名なパリ・ダカ・ラリーにも出場。完走して59位に入っている。
憧れだったユーラシア大陸を西から東に駆け抜けるマスター・ラリー(パリ・サマルカンド・ウランバートル)に出場したのは1996年のことで、走行距離1万キロに及ぶ長丁場のレースを見事に完走してみせた。その後も彼女はこうした世界的なロードレースに挑戦し続けており出場したレースは15を数える。


マスター・ラリーに出場したときの能城さん
命は自分の所有物ではない
これは現代の奇跡といってもいい快挙だ。彼女が乳がんの手術による後遺症で失った体の機能は1つや2つではない。
クルマのハンドルを持つ手は右も左も握力が幼稚園児程度しかない。それでは通常のギアをスムーズに操作できないためギアはオートマチックにしてある。アクセルやブレーキを踏む右足も後遺症で大きな障害を抱えている。子宮がんの手術によるホルモンバランスの変化で股関節が変形し、右足が左足より3センチも短いのだ。そのハンデを補うため、彼女はアクセルやブレーキにゲタのような補助器具を取り付けて、かかとを床につけたまま足首の動きだけで操作できるように改良している。こうした工夫を重ねて彼女はパリ・ダカやオーストラリアン・サファリに出場していたのだ。
こうした後遺症をカバーする知恵には、ただただ驚くばかりだ。
いくつも体の機能を失い続けながらも、能城さんは落ち込んだりせず、知恵を働かせてとてつもないことをやってのける。それができるのは、人間の一生は、いろいろなものを失っていくプロセスであることをわかっているからだと思う。小さい頃から健康そのもので育った人間は、失うことに慣れていない。だからがんになるとずいぶん大きなものを失った気持ちになり、心のエネルギーまで喪失してしまう。
それとは逆に能城さんは小学校5年生のときに肺門リンパ腺炎を患って1年間休学して以降、何度も大病を患い、その都度さまざまなものを失ってきた。その結果、彼女は失うことに対する割り切りができるようになり、体の機能を失っても心のエネルギーまで失うようなことはなかった。
能城さんと話していると、しっかりした独自の死生観をもっていることに気付く。彼女は「命は自分の所有物ではない」と言い切る。たしかに、いくら本人が「そろそろだ」「余命あとわずかだろう」と言っても、それは勝手な思い込みでしかない。そうなるケースは稀で、死にどれだけ近づいているかなど、誰にもわからないのだ。いちばん賢明なのは、いつ来るとも知れない死のことなど考えず、自分のやりたいことにありったけのエネルギーを注ぎ込むことだ。能城律子さんの生き方は、その真理をわかりやすい形で示してくれているように思う。
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