さくらの花よ泣きなさい。ぼくも一緒に泣いてあげるから リンパ節転移のある下咽頭がんを乗り越えた作曲家・三木たかしさんの闘病700日
思うように飲み込めないつらい日々
咽頭がんの場合手術を受けたあと最大の難関となるのは食べ物を飲み込めなくなったり、激しくむせたりする嚥下障害だ。
パッチ状に切り取った前腕部の皮膚を移植して再建しても、再建=機能回復ということにはならない。移植した皮膚はすぐに体になじむわけではない。人体には外敵を排除しようとする機能があるため縫い合わせた部分が盛り上がったり、ひきつれを起こしたりして狭窄が起きる。
三木さんのように切除範囲が広く複雑に縫合されている場合は、狭窄で食道の入り口が塞がってしまうことも少なくない。しかも三木さんのようにリンパ節転移の範囲が大きいときは、神経ごと切除するので腕の神経を移植して再建しても脳からの指令が伝わりにくくなり、喉頭の蓋がうまく閉まらなくなる。
人間の食物を飲み込む機能はよくできていて、食物をとると自動的に脳の嚥下中枢、摂食中枢からの指令が出て喉頭の蓋が閉まり、食道に行く仕組みになっているが、食道の入り口が塞がり、しかも喉頭の蓋がうまく閉まらない状態だと食物は喉頭から気管に入ってしまう。激しくむせるのはそのためだ。
「手術後、まずつらかったのは、咳が出て、むせて仕方がないことです。横になるとむせるのでイスに座ったまま眠るんですが睡眠薬が効かないので1時間くらいで目が覚めてしまうんです。仕方ないのでまた睡眠薬を飲んで短い眠りにつくということを朝まで繰り返していました。
でも、地獄だったのは手術後3週間ぐらいして鼻の管が外れ、できるだけ自分で食べるようにしてくださいって言われたあとです。はじめはペースト状、ゼリー状のものから少しずつ始めるんですが、何も飲み込めないんです。なんか、喉のところに壁でもできたんじゃないかっていうくらい入っていかないんです」
自力で食事ができるまでに半年以上かかった
それでも狭窄部をバルーンで拡げる治療を受ければ食物を飲み込めるようになる。三木さんもそれをやってもらったのでゼリー状のものは1カ月くらいで何とか飲み込めるようになり、次は重湯、さらに固形物の摂取と進んでいった。そうやって負荷を増しながら退院後、自分で食事ができる状態にもっていったのだ。
しかし、いくら用心して少しずつ飲み込んでいっても、飲み込む際に喉頭の蓋がうまく閉まらないため、食物が気管に入って吐き出してしまい、激しくむせる状態が続いた。
「誤嚥(食物が気管に入ってしまうこと)すると、吐き出すものを用意してげろげろ吐き出すんですが、凄いむせ方をするんで苦しくて生きているのがイヤになる。
これは余談ですが、入院していた国立がん研究センター東病院は8階のテラスから周囲を見渡すと景観が素晴らしいんですよ。でもドアが15センチくらいしか開かないんです。入院したてのころは、患者たちに見せれば慰めになるんだから馬鹿なことをするなと思っていたんです。
でもそのときになって、なぜ15センチしか開かないのか意味がわかりました。鼻の管をとったあと、自分で食べなさいと言われてもできなくて、そのたびに癇癪を起こしていたので、15センチ以上開いていたら間違いなく飛び降りていましたね」
この嚥下障害は8月中旬に退院したあともなかなか改善されず、自宅でも食事のたびに激しくむせて、思うように食事ができない状態が続いた。
「家内(恵理子夫人)が誤嚥が起きにくいように、フレンチトーストみたいなつるりとしたものや、やわらかくて飲み込みやすいものを工夫して作ってくれるんですが、時間をかけて少しずつ口に運んでも誤嚥が起きてしまうんです。犬だって何の苦もなくご飯を食べているのに自分は何で食べることができない。苛立って、まわりの物を投げつける、テーブルをひっくり返すという散々な状態でした。
何度精神科の医者に診てもらおうと思ったかわかりません。目方もどんどん減って手術前は64キロあったんですが44キロまで落ちてしまいました。
結局、完全に自分だけで食事ができるようになったのは、翌年(2007年)の2月になってからです。手術前は、半年もすると普通に食べられるんじゃないかと思っていたんですが、1度の食事に3時間かけて何とか自力で食事ができるまで半年以上かかってしまいました」
重粒子線治療で肺転移を乗り越えた
さらに手術から5カ月後の2006年12月には、左肺にがんが転移していることが判った。その後転移は右肺にも確認された。
手術後、再発リスクの高い患者に対しては化学療法が行われるケースが多い。三木さんも手術のあとドクターから3カ月以内に抗がん剤治療を始めるよう勧められているが、きっぱり拒否している。嚥下障害で食事をまったく取れない状況でさらに抗がん剤治療を受けることなどできない相談だったのだ。
肺転移が見つかったあと三木さんは、どのような治療を受けるべきか海老原敏さんを訪ねて意見を求めた。それに対し海老原さんは、転移はどちらも1カ所なので外科手術で摘出するやり方と放射線治療で治すやり方があるが、QOLを考えれば重粒子線による治療がベストという意見だった。
「海老原先生に千葉市にある放医研(放射線医学総合研究所)、重粒子医科学センター病院を紹介していただき、そこで重粒子線による治療を受けました。副作用はほとんどないと聞いていたんですが、その言葉通りで、痛くもかゆくもなく、しかも治療は1回2分間の照射を4日連続でやっておしまいです。まず8月に1度入院して左のほうをやり、2カ月間を置いて右のほうもやりました。入院期間も短くて8月に入院したときは、固定具を作る必要があるので1週間ぐらい前に入院しましたが、10月のときは6日間でした」
ギターを弾けるまでに回復

手術後翌年、ギターを演奏する三木さん
こうして肺転移という大きな危機を乗り越えた三木さんは音楽家としての活動に意欲を見せ始める。歌うための声は失われたが、しばらく自由にならなかった左手のほうは、ギターの弦を自在に押さえられるまでに回復していた。
「声のほうは森進一が喋っているみたいです(笑)。これははじめから予想されたことだからいいんです。でも手術の際、左前腕の皮膚と神経が移植されたのは予定外で影響も大きかったんです。左腕はしばらくギブスで固定されていたので、ギブスが外れたあとも腕の上げ下げがうまくできなくなってしまいました。それと神経を切った影響で指もうまく動かなくなってしまったんです。それではギターが弾けず商売になりません。ですから片時もギターを離さずに指を動かす訓練をしたんです。そしたら少しずつもとの感覚が戻ってきて弾けるようになったんです」
ギターを再び自在に操れるようになった三木さんが最初にやったことは『さくらの花よ泣きなさい』のCD化だった。がんとの闘いが始まる直前、前述のように三木さんはこの曲を自らの声で録音している。この思い出深い曲を歌ったのは愛弟子の保科有里さんだった。
そのお披露目となる保科さんのコンサートで三木さんは久々にステージに登場し、ギターで保科さんの伴奏を務めている。

3月18日に行われた「さくらの花よ泣きなさい」のお披露目ライブ
苦しむ人たちのためにできることからやっていきたい
三木さんとがんとの闘いは現在も続いているが、これまでの闘いを振り返って三木さんは次のように語る。
「今でも嚥下障害はありますが、私の場合、予後が悪いと言われる下咽頭がんになり、しかも見つかったときはステージ3から4に入るところまで進んでいたんですから、よくここまで回復したもんだというのが偽らざる心境です。
1年半前の私は、食べ物をいつまでたっても飲み込めないことに苛立って精神的にどん底の状態にあっただけでなく、肺に転移が見つかり、さらには誤嚥による肺炎で高熱にうなされるという絶望的な状況でした。
そこから這い上がって、ステージでギターを弾いたり、こうして長時間インタビューに答えられるようになったんですから、支えてくれた家内や先生方には感謝の気持ちでいっぱいです。
最近は、自分はここまで助けられたんだから、同じ咽頭がんに苦しむ人たちのために何かできるんじゃないかという気持ちが強くなっているんですよ。できることからやっていくつもりです」
現在三木さんは恵理子夫人がハイカロリーで誤嚥がおきにくい食事を作ってくれるおかげで体重も回復し血色もいい。曲を作ることに対する意欲も蘇っている。先日NHKで三木さんと同じ咽頭がんになり手術の影響で高音域の声が出なくなった韓国人オペラ歌手、ペ・チェチョルさんの賛美歌を歌えるようになるまでの苦闘の日々が放映されていたが、それを見ていて筆者が思ったのは、出る音域だけで歌が作れないものかということだった。ペ・チェチョル同様、がんで高音域が出なくなった人は世界中にたくさんいる。そうした人たちが苦労しないで歌える曲があったらどんなにかいいだろうと思ってしまう。それができるのは三木さんしかいないように思う。三木さんは、ジャンルにこだわらずにどんなスタイルの曲でも作ってしまうことで知られる。自らの経験で、歌える声を失った者、歌声が出にくくなった者のつらさも知り抜いている。
三木さんならできるような気がしてならない。
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