書くことで病気との距離感がつかめるようになった気がします 女優・洞口依子さんが語る、子宮頸がんと共存するまでの長い長い道のり
試練の日々

最初の試練は4時間おきに行われる残尿測定だった。
広汎子宮全摘術では子宮周辺を広範囲に切除するため膀胱の神経が傷つき、尿意を感じられなくなる。しかもおしっこをしても自分では全部出したつもりでも、少ししか出ないため、かなりの量が膀胱に残ってしまう。その量が減らないようだと失禁のリスクが高くなるため、広汎子宮全摘術を受けた患者は、術後1週間くらいから、4時間おきに残尿検査を課せられる。
これは、まず自分で排尿したおしっこを尿カップにとり、そのあと処置室で看護師さんに導尿してもらって膀胱に残っていた尿の量を測定するという手順で行われ、膀胱に残っている尿が5回連続で50cc以下になれば合格だ。
傍からみれば何でもない作業に見えるが、導尿は、カテーテルを直接尿道口から差し込んで行われるため精神的につらいうえ、24時間休みなしで行われるので、睡眠中に2度も看護師さんに起こされ、処置室で導尿を受けることになる。
それでも1週間や10日くらいで「5回連続50cc以下」をクリアできれば、たいした苦痛ではないが、洞口さんの場合、残尿量がなかなか減らないためクリアできず、退院のメドが立たなかった。
「おしっこに振り回されていると気が立って神経過敏になるんです。病室を出るとすぐ前に授乳室があるんですが、その前にベンチがあって、昼夜に関係なくいつも誰かしら座ってるんです。それにけっこう苛立っていました。私、同じ子宮頸がんで入院していた70歳くらいの眼科の女医さんと仲良くさせていただいていたのです。その方が、私の気持ちを察して看護師さんに『私はいいけど、この方はまだ若いんだから、目の前にお産の若い夫婦がいつも座っているベンチを置くなんて、おかしいんじゃない』って言ってくれましたね」
「5回連続50cc以下」という高いハードル
悪いときには悪いことが重なるもので、残尿量が減らずイライラが募っているところに手術の際に採取した細胞の検査結果が出て、リンパ節に転移していることが判明した。
それに対処するには、放射線と抗がん剤を併用する治療をひと月ほど受けなくてはならない。排尿障害で参っているところに、抗がん剤や放射線の副作用まで加わるので、彼女は面前が真っ暗になったが、根治を目指すという最終目標がある以上、受けるしかなかった。
放射線と抗がん剤の併用による治療は、3月に入ってすぐ開始された。投与された抗がん剤はシスプラチン。彼女は強い副作用が出ることを覚悟していた。猛烈な吐き気、頭の毛が抜け落ちてしまう脱毛、手足の痺れ、白血球減少……。
しかし、いざ始まってみると吐き気が多少あり、体がだるかったものの、思ったほどではなかった。頭髪も洗髪のたびにごっそり抜け落ちるものと思っていたが、抜けたのは僅かだった。しかも、この併用治療は望外の効果もあった。抗がん剤や放射線の副作用に頭が行っていたため、残尿がいつまでも減らないことに対する苦痛と苛立ちがいくぶん解消され、併用治療を開始して1週間くらいで「50cc以下を連続5回」をクリアできたのだ。
そのため併用治療が終わったあと、2カ月に及んだ入院生活に何とかピリオドを打つことができた。
つらかった排尿・排便障害
これで子宮頸がんとの闘病のドラマが終わったわけではない。これは第2幕の終了であり、それから長い長い第3幕が始まるのだ。
退院で治療がすべて終了したわけではなかった。通院治療が始まって最初に行われたのは腟内照射だった。
放射線治療を検討していたとき、アプリケーターを挿入して激痛に苦しんだことがあったが、手術で腟の3分の1くらいが切除されて閉じられていたので、彼女は同じような目には遭うまいと考えていたようだ。しかし、結果は同じで、放射線室で激痛にのた打ち回ることになる。
それ以上につかったのは排尿・排便障害で毎日のように失禁してしまうことだった。これで落ち込んでいるところに、女性ホルモンの低下による後遺症が現れた。
手の痺れだった。これで簡単な手仕事もままならなくなったため、家に引きこもり悶々とする日が続いた。
元来がじっとしていられないタイプである彼女は、そんな状態が続くことに耐えられなかった。主治医に相談したところ「生きがいだと感じていることをやるべき」とアドバイスされた。
彼女にとっての生きがいは女優として演技をすることだ。まだ無理ではないかという気持ちもあったが、何とかなると自分に言い聞かせて車椅子で仕事に復帰した。しかし手の痺れでメークの筆がもてないうえ、撮影中も歩行がままならないなど、女優業復帰は時期尚早の感を免れなかった。
どん底からの脱却

広汎子宮全摘術を受けると女性ホルモンの急激な低下で不安障害が出ることが多いが、洞口さんの場合、早い段階で無理をして芸能界に復帰したため、パニック障害という形で出た。
手術から9カ月が経過した晩秋のある日、彼女は何の前触れもなく呼吸が苦しくなり、何度も吐いた。慌ててタクシーを拾って病院に向かったが、発作はさらにひどくなり、心臓が締め付けられるように苦しくなって体が硬直し、このまま死ぬのではないかと思ったとき意識を失った。
この発作は1度きりではなく、繰り返し時と場所を選ばず頻繁に起きた。こうなると仕事だけではなく、日常生活にも大きな支障をきたすようになる。発作を抑えるには薬に頼るしかないので、抗うつ剤、精神安定剤、導眠剤を山のように飲むようになった。
不安障害が出るようになると、マイナス思考のスパイラルから抜け出せなくなるため、愚痴や不平不満が多くなり、人に対しても寛容に接することができなくなる。そうなると当然仕事もうまくいかなくなる。
がんと付き合う自信がついた

そんなどん底の状態から彼女を立ち直られせるきっかけを作ってくれたのは「書くこと」だった。
「そのときは眠りたくても眠れず、精神的にも肉体的にもガチャガチャで、学生運動で瓦礫の山になった校舎みたいな感じだったんです。知人にメールで愚痴を聞いてもらっていたら、その人が、言いたいことがいろいろあるみたいだし、文章も書けるんだから、書いてみろ。知り合いの朝日新聞の編集者を紹介するからって言うんです。その話に乗ったら話がとんとん拍子に進んで、夕刊のコラムに3回書かせてもらえることになったんです」
それが好評で単行本を執筆することも決まり、これは今年6月『子宮会議』というタイトルで小学館から刊行された。
文章を書くことは、彼女に望外の効果をもたらした。書いているうちに、それまで見えなかった自分が見えてきたのだ。自分におきたことを短い文にまとめるという作業は、客観的に自分を見つめなおす作業だ。病気になってから起きたことをあれこれ思索しているうちに、その時その時の自分と病気のかかわりも見えてくるので、書けば書くほど病気との付き合い方もわかってくる。
「書くことは過去の眠っている自分を呼び覚まします。そうやって自分と対峙することはかなりつらい作業だけど、書くことで最近ようやく病気との距離感がつかめるようになった気がします。それで、ちょっと自信がつきましたね。
手術からすでに3年半経っているんで、再発に関しても、自分では、いい感じなんじゃないかと思っています。でも仮に再発したと言われても、がんと付き合う自信がついて来たんで、ちょっとは強くなれるんじゃないかと思います」
どん底の状態から洞口さんを立ち直らせたのは「執筆療法」だった。広汎子宮全摘術の後遺症でどん底に状態に陥っている方は、トライしてみる価値がありそうだ。
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